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それからの夫婦

「雛菊《ひなぎく》」
呼ばれたその名はすっかりと彼女の耳に馴染んでいた。水干を着なくなってから一年と少しの時間が経っているのだ、そんなものだろう。
「なんでしょう、清明《きよあき》様」
広げていた、萌黄に染めた紗《うすぎぬ》をたたんで振り返る。今まで踊ることしかしてこなかった雛菊にとっては縫物ひとつも大仕事だから、女房の力を借りてもまだ肌寒い今のうちから取りかからねば夏の時期に間に合わないのだ。
対して相変わらず顔面に木綿の布を巻いた高良《たからの》清明は穏やかな表情で簾を上げて入ってくると、まっすぐに雛菊のすぐ隣に座り込む。
「綺麗な色だね。ところで少し助けてもらえるかい」
「なんでしょう」
すぐ傍らの女房は表情こそ変えないが、この夫婦の作る不思議な空気に未だ慣れずにいた。夫婦であるならもっと言葉にも声音にも親密さがにじみ出ても良さそうなものを、このふたりはいつまで経ってもよそよそしさが抜けない。だからとて冷え切った夫婦のそれとも違い、夜は毎日ひとつの塗籠で、渡殿にいる者にも聞こえるほどに仲睦まじいのだからやはり、不思議だ。
「ほら、成友《なるとも》のところの桜の君がそろそろ産み時だろう、祝いに何がいいだろうとね」
「……わたくしがそういったことを得手だとお思いですか?」
「いいや」
薄く笑う清明に、恨めしげな視線を投げかける雛菊だが。
「私も不得手だ。一緒に考えておくれよ、可愛い人」
それはきっと、ただ同じ時間を過ごすための言い訳なのだ。ようやく夫婦らしい姿を見ることができたところで、女房はひとつ頭を下げると満足そうにその場から離れた。
「……松枝《まつがえ》はわたくし達のことを心配しているのでしょうね」
「だろうね」
立ち去った女房を少し気まずく見やる。自分よりずっと年上で、夫とも長い付き合いの女性なのだ、そういうものだとわかっていてもどう接していいのかわからない。まして雛菊は稽古の場以外で同性相手にお喋りをするなんて経験があまりなかったのだ。先ほど話題に上った清明の友人の妻とも何度か会う機会があったが、いつも話は特に盛り上がらない。だから余計に。
「祝いの品だなんてわたくしには思いもつきません、松枝や……ほら、実常《さねつね》のところも結婚をしたばかりでしょう、あちらの方が歳も近くいらっしゃいます、きっと……」
「雛菊」
あれやこれやと逃げ道を探した雛菊だったが、どうやっても逃げられそうにないことを、清明の低い声で実感する。
「私はまだ君に関して知らないことの方が多すぎる。相手がどうとかではなくて、君なら誰かに何を贈りたいのか、何を贈られたら嬉しいのか。そんな些細なことが知りたいだけなんだよ」
教えてくれるね、と断る隙を与えられずに雛菊の顎が清明の指先によって持ち上げられる。それはこちらの台詞だ、と言いたい言葉は口移しで直接伝えることにした。

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