おもいでばなし

その人を初めて見た時の印象はただひとつ。
(あ、メガネ)
 他はさっぱり、記憶にない。

「おう、土産やぜ」
 カンカン帽に着流し姿。それがいつもの彼のスタイル。
「あ、庄川さん」
 庄川と呼ばれた青年は、幼く見える少年と少女、二人の頭をちょっと乱暴に撫でて、ほら、と使い古された魚籠を投げて寄越した。
「わ、わ……あ、鮎だ」
「ほか、もうそんな時期やったっけ」
 夏のほんの少し前、庄川では鮎漁が始まる。
「今頃神通もはしゃいどんがやろうぜ。あのっさん、鮎ん時ばっかしはおもしいくらいテンションあがっとっからいね」
 けらけらと笑う長身の青年がカンカン帽を脱ぐと、短く刈った薄茶色の髪が日の光を浴びてキラキラと光るようだ。
 その様子をじっと見つめるのは少年。
「? どしたんけ、松川。わしの頭、なんか付いとっけ?」
 視線を感じ、自分の髪をさわりと撫でる庄川に、松川はなぁん、と小さく答えた。
「なんでもないながやけど」
 けど、と続けて。
「いっつも思うがやけど、初めて会うた時と、庄川、全然イメージちごとんもん」
「は?」
 そうぽかんとした声を返す庄川と、そのやり取りを不思議そうに見る岩瀬。
「あたしが知ってる庄川さんは、いつもこんな感じですけど、……昔の庄川さん、違ったんですか?」
 そういえば岩瀬が庄川と初めて会ったのは、ついこの間と言ってもいいくらい、彼らにとっては近い昔。その頃には確かにこの青年は今とまったく寸分たがわぬ調子だったけれど。
「なんやろ、なんか違うんやって。僕ら初めて会ったんっていつやったっけ」
「そんなが覚えとるわけないうぇ。おらっちゃどんだけ長い付き合いや思っとんがけ」
 せやんな、と答えはしたけれど。
「あーでもあれや、あの頃っちゃ、まだ松川が神通を名乗っとったいね。まだ神通が、ちっちゃて」
「え、松川さんが神通さんだったんですか? で、神通さん、ちっちゃくって?」
「おいね。今の松川よりずーっとちっちゃかったんぜ。岩瀬よっかずーっと」
「あたしより、ちっちゃい神通さん……」
 思い浮かばないのだろう。あの頃の岩瀬も今の岩瀬ではなかったから。
「ほんで庄川は、メガネやった」
「は?」
 唐突に松川が挙げた単語。メガネ。
 しばしの間、が開いて。
「あーそんこたそんな時期もあったっちゃねぇ」
 決まりが悪そうに頭を掻いて、庄川は少し、恥ずかしそう。
「あん頃はまだわしもきかん子やったがいぜ」
「自分で言うかぁ」
 きかんこ、と岩瀬は口の中で呟いて、頭のなかで変換する。富山の言葉できかん、と言うのは賢い、という意味。何度聞いてもこの変換作業に少しの時間が必要になるのは、やはり言葉自体の印象のせいだろうし、もうひとつ、きかん坊と言えば生意気な、という意味の違うよく似た言葉があるからだろう。
 人の手によって存在する岩瀬にとって、飛び交う方言を理解するのは、ほんの時々大変だけれど、もう慣れた。言ってみれば儀式的なものだ。岩瀬にとってのみ、の。
「ま、ほら。昔はお互い色々あったいね」
 な、と松川の肩を叩く。その手に言葉にしないが何やら思う節が見えて、松川もそれ以上を言わないことにした。
「あ、でも」
 岩瀬が持ったままの魚籠を見て
「あん時も、おいね、鮎を釣っとったねか。まだそんな暑なっとらん時期やったけど」
「ほやったっけ?」
 うーん、と昔を思い出そうと首を傾げる。夏の、日。まだメガネの、頃。
「なぁん思い出せんがやけど。いっちゃあ、忘れとっとっても、もういつやらの話で覚えとってもなん意味ねぇし」
「ま、ほやな」
 あはは、と二人、顔を見合わせて笑うその様子には、岩瀬には入り込めない年月が確かに存在しているのだろう。けれどそれも、ずいぶんと、彼らにとっても昔の話。
「あってもなぁても、じゃまねぇわ」
 その程度の記憶だけれど。
「けどそん時の鮎は、どやったんやろ」
 おいしかったのならきっといい思い出だったのだろうと、自分の事ながらに思う。