八夜・凶星よりの使者


メルメのアドバイスの通り、新月の夜に出発したコートニーとリュミナスは、やはり彼に言われた通り、コートニーが思うままに道を選んで進んでいった。
「昨日は西へ今日は北へ。次はどこがお望みかな、お嬢さん」
「もう、あっちこっち行くのが嫌になったのなら、ついてこないでいいんですよ。わたしひとりでもだいじょうぶですから」
「そう言いながら何回転んで怪我しそうになったか教えてあげようか」
そんなの数えてるんですか、と顔を赤くして睨むコートニーは怖いというよりむしろ愛らしい。歩調を合わせて歩くリュミナスは目的がありながらなぜだろうか焦る気になれないこの二人だけの道のりをとても楽しんでいた。
「前はあっさり二人が見つかっちゃったしなあ」
以前のほんの数日だけの馬車の旅を思い返す。あれからまだ一月と経っていないのが不思議なほど慌しい日々を抜け、のんびりと歩いているのがなんだか面白い。振り返ると、転ぶまいとゆっくりとした歩調で後ろをついてくるコートニーの姿がすこし離れていたのでそっと手を差し伸べる。
「大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、です」
そう言いながら小さな手袋をはめた手を重ねてくる。隠されたその手は既に獣のものだ。ますます覚束ない足も、ブーツに隠れてはいるけれど、確実に獣に蝕まれている。それを思い、そっと力を込めて握ると、びっくりしたようにぴくりとはねる掌がくすぐったい。それでもすぐに握り返してくるのは素直さ故の行動だろうか、恥ずかしそうな顔はどうしてだろうか、目が離せなくなってしまう。
「それよりコートニー、本当にどうしようか。そろそろ次の行き先を決めないと夜が近くなってきたよ」
「ううん、そうですね……ここ半月で色んなところに行けたから、あんまり行きたいところとか思いつかないですけど」
あ、でもと小さく呟いて続ける。
「教会に行きたいです。スリィジアの教会があるところ、どこか近くにありますか?」
そういえば星の神を祀る森の民だったなと思い出し、そしてもう一つ、教えると約束していた神話をまだ話していなかったことも思い出してリュミナスはある街の存在に思い至った。
「それならここから少し遠いけど、ライクッグに行こうか。あそこはスリィジアだけじゃなく全ての神の教会が並ぶ教会街だ。まだ神話のことも教えてなかっただろう、ついでに語れるだけ語ってあげるよ」
「教会街? わあ、行ってみたいです。そんなにたくさん教会があるの?」
「ああ、主神はもちろん最上三神から下級の神々全てをそれぞれ祀る教会が大小様々にね。スリィジアは中級だから教会もそこそこの造りをしていたはずだよ」
「神様ってそんなにたくさんいるんだ!」
「そういえばそこから説明しなくちゃいけないのか……」
少しだけげんなりとしたけれど、まあいいかと思い直す。ライクッグに着くまで三日はかかるだろう、その間に世界と主神の始まりを語るところから、コートニーの反応次第で少しずつ主要な神々の有名なエピソードを教えていけばいい。大変そうだが誰もが空で語れるのが神話だ、話すこと自体は苦でもない。それに目の前の少女が嬉しそうに新しい知識を覚えていく様子は見ているこちらも楽しくなるから、まあいいかなと思えてくる。
「それじゃあとりあえず向かうのは南西。途中の村に馬車駅があるはずだからそれに乗って行こうか」
それまではゆっくりね、と手をつないだまま歩き出す。手を離すタイミングがつかめないまま、その日の夕方になってようやく駅についた頃には二人の手はじんわりと汗ばんでいた。

「昔々、ずっと昔。まだ世界が生まれてもいないくらいの昔、何もない空間でひとつの存在が生まれた。それが主神、その時の名前はイェシュ。彼は自分以外になにもないその空間に悲しんで涙を流した。その涙が海となり、泣き声が大地になった。そうして世界が産声をあげた。主神は自分が立てる場所が出来たことに喜び、三回手を叩いた。一度目の音で闇の神グリウが生まれ、二度目の音で光の神キュラルが生まれた。三度目に合わせた手の隙間から風が生まれ、主神の髪をなびかせた」
「そうして出来た世界の基礎に、主神と二人の神が次々といろんなものを創り出し生み出し世界が大きくなっていった。生まれたもの、創られたものの中には強い意志が宿るものもいくつか生じ、生まれたものの意志からはそれぞれの神が生まれた。創られたものからは精霊や動物、そして人が生まれた。そうして世界は完成し、今のような世の中が形成された。今も神々は様々なものを生み出し創り続けている。世界は完成したけれど、まだ成長の余地がある。だから今も新しい神は生まれ、新しい生き物も創られるんだ」
二人が乗った馬車は一番安いもので、狭くて乗り心地はよくない。それでも静かに優しく語られる、童話のような神々の物語にコートニーはじっと耳を傾けていた。母親が幼い娘にする寝物語のようにやんわりと眠りの淵に誘われそうになるけれど、その度暖かに撫でられる手にどきりとして目が覚める。
「寝てもいいのに」
ふふ、とすぐ近くで笑う息が耳にかかる。
「ね、寝ないです。せっかくお話してくれているのに、もったいないもの」
首を振るとばさばさと髪が広がる。短くて柔らかい髪は手触りがよくてリュミナスは無意識に撫でていた。
「別に何度だって話してあげるよ。これくらいなんでもないのだから、遠慮も我慢もしなくていいよ。眠くなったなら眠ればいい。目が覚めたら眠る直前の続きから話してあげるから」
「子供あつかい、しないでください……」
それでも眠たい瞼は止められず、すぐにコートニーは夢路へと船を漕ぎ始め、その内にひとりぽっちの少年が、暗闇の中で誰かに手を差し伸べる夢を見た。

***

主神が生まれてから運命の女神ウィラベルに出会うまでの物語を聞いた後、スリィジアの恋物語やその兄姉神と呼ばれている太陽の神サニィタや月の神モノリッタの小さなエピソードを語ってもらった。神話から少し外れたけれど精霊女王のことや、宵闇の女王とのやりとりで使われた短剣、『明星のコーストース』にまつわる昔話を聞いて一通りの満足をしたころ、その街は見えてきた。
「ほらごらんコートニー、あれがライクッグだよ」
窓から顔をだしてリュミナスが指差す方を見ると、石造りの巨大なアーチがすぐに見えた。街のカラーは全体的に白。お椀をひっくり返したように中央に向かうほど小高くなる不思議な建物の集合体は、一番中心に細く長い塔が建っている。
「あの中央の塔が主神を祀る教会、今の彼の名はオウラだから、教会の名前もオウラルーグとなっている」
「オウラルーグ……」
白く並ぶ建物たちのどれよりも一番真っ白で美しい。すらりと伸びた塔の先は空の向こうにすらに続いているように見える。
「オウラルーグのすぐ足元から最上級神、キュラルとグリウ、それにウィラベルの三神の教会へ続き、順に上級、中級、と階級が下がる毎に教会が建てられる高さが下がっていく形になってるんだ」
いわれて見ればなるほど、全てを把握するのは主神にも難しいといわれる数いる下級神の教会は、ドレスの裾が広がるように高さのない大地にも降りて建てられている。
「すごいすごい、初めて見たわ、あんな街」
「興奮するのはわかるけど、信仰深い人々が毎日賑わう街だからはぐれないでくれるかい」
「だいじょうぶよ。手をつないでいれば、はぐれないわ」
そうでしょう、と屈託なく笑う少女の言葉には深い意味は読み取れない。ちょっと鈍感すぎやしないかなとも思いつつ、二人で旅する役得とばかりにほんの少し二人の隙間を縮め、ライクッグの街に降り立った。そこは、ごちゃごちゃと建ち並ぶ小さな教会に囲まれた道をまっすぐに進むと上級階層の太陽神の教会、そこから光の神の教会を経由してオウラルーグにたどり着くことのできる表門だった。月から闇へ通る裏門よりも人は多く、星から運命へと向かう正門より人が少ない。
「まずは約束どおりスリィジアの教会へ、と思ったんだけどそこへは正門から入った方がまっすぐで近かったんだよね。これは馬車に乗るときに確認しなかった俺が悪いんだけどさ。まあ中から回って行けないこともないし、ゆっくり行こうか」
はい、と言う小さく従順な返事を合図に、巡礼者達の波ではぐれないように手をしっかり繋いでリュミナスとコートニーはライクッグの街を歩き出す。白い街を進む道にはどれにもすぐ横に並ぶ建物へ入る入り口が数多くあり、中には小柄なコートニーすら屈んで入らなければならないようなものもある。
「なんだか穴ぼこだらけではちの巣みたい」
きょろきょろと辺りを見回した感想を素直に漏らすと、リュミナスに笑われた。
「神を祀る教会群を蜂の巣呼ばわりだなんて、度胸あるよね」
「だ、だって、そんなこと言われても、そう思ってしまったのだもの」
「まあ確かにそうだよね。蜂の巣か、もしくは蟻塚かって感じ。巡礼者の訪れる日中は特に扉を開け放しているからますますそう見えるかも」
ふふ、と悪戯っ子みたいに笑うリュミナスにつられてコートニーも微笑む。
「あ、ねえ、今の道、曲がるのじゃないの?」
ふと立ち止まってコートニーが通り過ぎた脇道を指差す。人が一人通るのがやっとくらいの細い道だ。
「いや、別に……この先のディクトの教会を右に曲がる大通りから行く道の方がわかりやすいと思うんだけど」
何度か訪れたことがあるから間違いはない。とは言っても、住人ですら迷うことがあると言われる広く入り組んだ街なので、もしかしたら抜け道のようなもののひとつやふたつはあるかもしれない。けれどコートニーがこの街を訪れたのはこれが初めてのはずだ。人づてに聞いたとしても、いくつもある細い道のたったひとつをどうして判別することができるだろう。けれどコートニーは頑固だった。
「でも、ここから行けると思うの。ここからの方が、すぐ行けると思うの」
繋いだ手を離さないまま、ぴたりと一ミリも動かない。まあ少し迷っても中央の塔を目印にすれば最終的に目的地にはたどり着けるだろうと瞬時に計算し、リュミナスは素直にコートニーの言葉に従うことにした。
「やけに狭い道けど、大丈夫なのかい」
「正道を通らず近道をしようとするなら、それなりの道を進むしかないのよ」
「……コートニー? メルメ師にでも言われたの、それ」
「え? ええと、ええとわかんないです。なんか、ぽろっと、無意識でした」
やけに大人びた発言に首を傾げながらも大人しくコートニーの後ろを着いていく。ぎゅっと掴まれた手はなんだか小さな少女が怯えているようにも見えて、ますます違和感が強くなる。術のせいだろうかと考え至った頃、目の前にそれまで通り過ぎていた建物よりも少し大きな建物がそびえ立っているのが見えた。
「ほら、ここ。近かったでしょう」
コートニーの言う通り、そこは星の神スリィジアを祀る教会、スルーグだった。

何故かその教会の扉は閉められていて、巡礼者の姿もみられなかった。扉にはカラスをモティーフにした鉄の装飾がなされ、なんだかその黒さがこの白い街の中で異質を放っているように見えた。
(今はサチュラの巡り年か……)
星は魔術の効果に大きく影響を及ぼす要素のひとつとして昔から研究対象とされていた。空に瞬く星の中でも大きく輝く星には名前がつけられ、それぞれの意味や性質も決められている。そして影響力の強さが常に一定ではなく、その時々によりどの星の影響が強いかが変わってくることが既に魔術師達にとっての常識となっていた。特にその星の影響力の強い期間を『巡り年』と呼び、それにより術の組み立てを変えることが必要になることもある。星の神を祀る教会はそういった事情を把握して巡り年にはそれぞれの星を象徴する動物をモティーフに装飾をするのだが、今はどうやらサチュラという名の凶星の力が強い時期のようだった。
「そういえばサファイアもサチュラの力が強い石だったな。それでサファイアなのかな」
じっと考えていると、いつの間にかコートニーと手が離れていたようだった。慌てて、いつの間にか開いていた扉をすり抜けて教会の中へ踏み入る。ランプの灯されていない建物の中は、ステンドグラスを通る日光だけが明かりとなっていてひどく薄暗い。ステンドグラスは入り口に対して真正面の壁上半分を全て彩っていて、その中央に神であるスリィジアを模した少女の像がどういった技術でかはめ込まれている。手になにか持っているようだが、それがなにかまでは逆光で判別できなかった。その像の足元を視線で辿ると質素な祭壇が備えられていて、そこに二つの人影があった。
「ココで出会えたのが運命だとは思わないかい、カワイイおじょーさん」
「思いません、単なる偶然じゃないんですか」
「やーだなあもう。偶然なんてないの、この世は全て必然なーの。だから僕とお茶でもどう?」
明らかに、ナンパの現場である。しかもされているのがコートニーとあってはリュミナスの機嫌も悪くなる。
「ちょっとちょっと、こんな教会の、しかも神像の真下、祭壇でナンパなんてなに考えてるんですか」
言いながら、二人をコートニーを背に庇う形で割り込む。相手の男はリュミナスよりほんの少し身長が低く、年齢も同じか少し幼いくらいだろうか。上半身を露わにした肌は泥のような土色。光の具合で緑にも見える灰色の髪と同じ色のタトゥだろうか、一筋のラインが鼻の頭を通って顔を上下に分けている。
「いやん、なあんだお連れさんがいたのかーザンネンっ」
全然残念そうじゃない笑顔で一歩下がる。なんだか全体的にメルメに似ているようで、雰囲気が全く違う。
「君は一体どこの誰でどういうつもりでこの子に声をかけたんだ」
単なるナンパ男に聞いても仕方のないことと分かっていながら、つい尋ねてしまった。まさか答えるわけもないだろうと他に追い払う口実を考えていると、目の前の相手はけらりと笑ってあっさり答えてきた。
「僕はー、セラティヤ。今ここの教会の管理人がでかけてるからその代理。その子に声をかけたのはー、可愛かったから」
あはー、と間延びした笑い方に毒気を抜かれる。教会の管理人代理にしては全く頼りになりそうにないのに、大丈夫だろうかなどと余計な心配をしそうになったところで「ところで」と声をかけられる。
「僕の名前は言ったんだからー、おにーさん達の名前もプリーズだよう」
軽い表情の中で黄色の瞳だけがやけに強い印象を与える。リュミナスは一瞬だけぞくりとしたが、なんでもない風をなんとか装った。
「失礼したね、俺はリュミナス。この子はコートニー。スリィジアを信仰してる地域の子で、教会に来たいというのでここに立ち寄ったのだけど、そうか、管理人さんがいないので扉が閉まってたのだね。勝手に入って悪かったよ」
「ううん、別に入ってもらってもよかったんだけどー、代理とはいえ僕もいるしさ。でもそっかー、来ちゃったかー」
やけに語尾を延ばす喋り方は癖なのだろうが、怯える女の子をじろじろと見るのは褒められた癖ではないだろう。リュミナスのマントを必死に掴んでコートニーはセラティヤの視線から逃げたそうに固まっていた。
「えーと、セラティヤ? あんまりじろじろ見るのは女性に対して失礼じゃないのかい」
「おっとゴメンゴメン。ついね、嬉しくてー。鳥さんには悪いケド、姫をエスコートできるのが僕だと思うとどうしてもねえ」
あははと笑って手を広げて少し距離を取るが、視線はコートニーに注いだまま。相手の考えていることが理解できず、もう出て行こうかと背中の少女に声をかけようとしたが、セラティヤの方が早かった。
「姫の探し物はココにあるよ。ビナーでしょう、エロヒィムが待ってるよ」
ビナー。その言葉にびくりとコートニーの耳がフード越しにも反応したのがわかった。その様子を見て取ったのか、セラティヤが驚いたような面白いものをみたような表情を作る。
「あれれ、姫ってニンゲンじゃないの? 聞いてないよ、獣の血が混ざってるなんて」
「……さっきから君の言う姫、というのは、コートニーのことなのか」
「うん、そうだよ。あれ言わなかったっけ。僕らは姫を迎える為に待っていたんだ、ここでずうっと」
「わ、わたし、は、ひめなんかじゃ、ないわ。ただの、ただの森の民よ」
震える声でコートニーが反論する。けれど相手はなんでもない風に言葉を返す。
「森っていうのは星の森と呼ばれている、あそこでしょう? だったらなおさら、キミは僕らの姫だよ。今代の星の姫、ずうっと待ってたんだ」
にこにこと本当に嬉しそうに屈託なく笑うその表情に、怯えていいのか安心していいのかわからなくなる。でも相手がなにを言っているのかは全く分からない。星の姫だなんて、聞いたこともない単語だ。
「うーん、その辺の説明は最近されてないのかなあ。そりゃまあ確かに先代が長すぎたのはあるだろうけどまさか忘れられてるとかじゃないよねー」
うーん、と一人だけ分かったように悩むセラティヤ。リュミナスもコートニーも置いてけぼりだ。
「ああそうだ、エロヒィムに直接聞けばいーんじゃないか。そだそだ、僕もこーいうの、説明するの苦手だもんねい」
次の瞬間、セラティヤは人間ならばありえない跳躍力でスリィジアの神像と同じ高さまで跳び上がった。驚く二人に気付いているのかいないのか、彼は幼い少女の像が両手で持っていたものを取り降りてきた。
「はい、コレ。受け取ってよ、姫」
毒気のない笑顔で差し出されたのは夜のように深い青色で造られた小さなナイフだった。コートニーは掌にすっぽり収まりそうなそれを、なんの疑いもなく手を差し出して受け取ってしまう。
「コートニー!」
「――ビナー、だ」
掌の上で転がすと、中に封じ込められた精霊エロヒィムが寝返りを打ったように、光が揺れた。きらきらと小さな星空をじっと見つめていると、だんだんと自分を呼ぶ声が薄くなっていく。
「――ト……コー……ニー」
(あれ、どうしたの、リュミナス。わたしを、呼んで)
段々と周囲の景色が手に持ったサファイアの様な色に染まっていく。青い闇だ。どうしたものかと辺りを見回すが、目に見えるものはなにもない。
(どうしたの、ねえリュミナス。わたしを呼んで。わたしが、いなくなってしまいそうなの)
虚ろな寂しさがじわりじわりと足元に絡みつく。不安になって手を差し伸べるが、触れたのは望んでいた手ではなかった。
「ようこそ、今代の星の姫。サチュラがお待ちだよ。その獣臭さはまあ……魂でいるうちになんとでもできるね。とにかく僕らはキミを歓迎するよ。待ちに待った新しい姫だもの」
にこやかに、純粋に笑うセラティヤが、コートニーの手にそっとキスをした。