六夜・精霊女王


部屋の中央、エルゼリオの正面。金の円にさらりとカーテンの向こうから現れたようなさりげなさで降り立ったのは漆黒が美しい女性だった。エルゼリオのそれよりもずっと深い闇色の髪は立ったままでも床に広がっている。これこそまさに神の芸術品とでも言うような完璧さを備えた美しい顔が持つ瞳は金と銀。額には、虹色に反射する紫水晶のティアラを飾り、漆黒のドレスは星を散らしたオーロラのような輝きをたたえている。
(せいれい、じょうおう……)
声が出ない。畏怖なのか感動なのかわからないけれど指の一本を動かすことも叶わない。リュミナスの背中越しに見ているコートニーですらそんな状態なのだから、まっすぐ対峙したエルゼリオはどんな思いでいるのだろうとはらはらしていると、その静まり返った冷たい空間を和らげる声が小さく響いた。
「呼びかけに答えていただけて光栄です。ようこそ、我らが世界の全ての女王」
エルゼリオの、声だった。
「ふ、なかなか面白いことをするな、人間種の魔術師らよ」
女王はその足下に膝をついて敬意を見せるエルゼリオを見下ろし、闇のように静かな声で心底面白そうに応えた。
(すごいわ、エルゼリオ)
精霊女王の目の前にいて声をかけられるだけの精神力もそうだが、女王を前にしてもやはり引けをとらない美しさはまるで精霊女王の子供みたいだという、そういう意味でもすごいと思った。
「まさか、成功するなんて……」
「言っただろう、オリヴィア。俺たちが上位レベルの精霊も召喚できるって証明をしようって」
「だからって、なにも、まさか、女王レベルだなんて!」
「なんじゃ。我を呼んだつもりがなかったのなら帰らせてもらってもよいか。我とて暇ではない。特に今はまだ暁のがのさばる時間じゃ。我の時間はもう少し後になってから故交代しようか」
「いいえ、夜を統べる母たる女王。貴女の力が必要なのです。どうかここに留まって僕らに力をお貸し下さい」
動揺するオリヴィアに、目線だけで立て、と制してエルゼリオが女王の機嫌をとる。無理もない。言い出したリュミナスですら膝が震えて立っているのがやっとなのだ、考えもしていなかった程の精霊のレベルの高さに覚悟が足りていないオリヴィアは今にも倒れそうな青い顔をしている。
(しかも夜クラスときてる)
そこまでは予想の範囲外。精霊女王は精霊王のすぐ下の階級。その強さは精霊王には遙か及ばないが、他の精霊たちとは段違い。世界中のそこここに空気と同じように存在している精霊が一番下位のクラスだとして、そこから一定の物に宿る精霊や言葉を使えるくらいの力を持つ精霊、と階級が上がるごとにその個体数は少なくなる。個々の名前を持つ程の精霊になると魔術書にそのほとんどの名が書かれるほどぐっと少ない。それらよりもずっとずっと少なく、そしてずっとずっと強いのが精霊女王レベルの精霊だ。数は固定の九。朝の名称を持つ女王が三、昼が三、夜が三といて、朝から昼、昼から夜へ向かうほど力が強いとされている。
「ならば早く望みを言うが良い。それを叶えるかどうかは我が決める。だが数百年ぶりに我を呼ぶほどの力と才は認める故、王に咎められぬ程度に叶えよう」
機嫌が悪いのかと思えばそうでもないらしい。唇の端だけで笑って、女王は楽しそうにエルゼリオを見つめた。彼は少し考えた後、リュミナスへと視線を向ける。リュミナスはもう交渉役をエルゼリオに任せるつもりらしく、目線だけで頷いて、背後の小さな少女を庇う。魔術に対する免疫が彼らよりずっと低いコートニーに、いつまでも精霊女王を見つめさせたままでは倒れてしまうだろう。それくらい強い力を惜しみなく放っている。その様子を見て静かに美しく面白そうに顔を歪ませて笑った女王が、その右手を前に伸ばす。するとその掌に一輪の山百合がふわりと咲いた。
「さあ、取り引きを。誰がするのじゃ。早うせい」
それに対して声を上げたのは、自分も今にも倒れそうなオリヴィア。元々色白の肌は今はガラスか陶器かというほど冷たい白さになっている。それでも彼女の口から出る声には、怯えの一つも見えやしない。オリヴィアのプライドが、自身を精霊女王に怯えて震えるただのか弱い少女にさせないのだろう。
「はい、夜の星の如き輝きの女王。取り引きの相手はこの私が。望みを告げる許しを下さいませ」
「よかろう、獅子の娘。許す」
ごくり、とオリヴィアが喉を鳴らす音。聞こえたのは多分コートニー唯一人。それからしっかりした足取りで精霊女王の前に立つと、緋色の髪を揺らめかせた少女は女王の持つ山百合に手を添えた。
「精霊の力望む、我が名は古のローエルンディアの父よりの名、オリヴィア・ライオット。欲する願いはコートニーにかけられた術の対抗策、及び古代の生物変換魔術の手がかりを」
オリヴィアの願いは二つ。その二つ目に思わず声をあげたのはリュミナス。
「オリヴィア、君はなにを考えて!」
「折角のチャンスだもの、手に入れられるものは全部手に入れるわ。それに事によっては手がかり一つでどちらの願いも叶うかもしれない、そういう性質の願いよ」
「だからってなにもこんなところで……」
ふと見ればエルゼリオもなにやら問いただしたげな視線を送っている。それを振り切り、オリヴィアは山百合を右手ですくい持った。
「さあ我らの願いを聞きし女王、貴女の願いを」
取り引きというからには互いの願いを聞かなければならない。それがたとえ同等の願いでなくとも。
「ふ、人というものは欲深い。が、それは我ら精霊には見られぬ性質。本当に主らは面白い。では我の願いも聞いてもらおう」
女王は優雅な仕草で今はオリヴィアの手の上に咲く山百合に、そっと手を添えて静かに願う。
「人間種の始まりと終幕を見守り数千の年月、我は名のなき宵闇の女王。我が欲すは獅子の歌姫の歌声と、なりそこないの美しき生」
女王の優艶な瞳に四人はどきりと動けなくなる。その視線の強さと、女王の願いの内容に、だ。
「なんじゃ、できぬのか。それでは取引は不成立となるが」
「いえ、構いません。夜の中の夜、女王の中の女王」
答えたのはエルゼリオ。その顔には怯えた表情の一つもない。
(そう、この取り引きは成立させなくちゃいけない。相手が宵闇の女王であるなら、どんな手を使ってでも)
宵闇の女王。一番深い夜の名を持つこの女王は精霊女王の中でも一番強い存在だ。女王レベルの精霊が呼べればラッキー程度に考えていたリュミナスでも、さすがに現れたのが宵闇の女王であるとなると話は別、彼もまたその力に改めて圧倒されてしまっている。
「そこのなりそこないは構わぬと言うが、どうするのじゃ。獅子の姫」
「わ、私は……!」
できない、とは言えない。オリヴィアだってこの奇跡的な幸運をみすみす手放したくはない。けれど生、と女王は言った。精霊女王から見ればなりそこないというのはきっとエルゼリオのことを指しているに違いない。あれほどの漆黒の髪に灰色の瞳、今は見えないけれどもう片方は金とくれば確実に精霊のなりそこないだ。
(女王はエルの命を欲しているのに)
頷けない。あまりに代償が大きすぎる。どうすべきだろうかと泣きそうな顔で悩んでいるオリヴィアの左手に、そっと細い手が重ねられた。体温の高くないその手はエルゼリオのものだった。
「エル……」
「大丈夫って言ったでしょう。これくらいは覚悟の範囲内」
いつもの優しい微笑みでそう言って、オリヴィアの右手に咲いた山百合の花弁を一枚ちぎるとそれをオリヴィアの口に含ませる。オリヴィアは恐る恐るその白く大きな花弁を受け入れ、こくりと小さな音で飲み込んだ。
「さあ、貴女はいかがなさいます。夜の華の美しさ持つ女王よ」
挑発的にそう声をかけると、女王はやはり面白そうにエルゼリオを見返して、「勿論頂く」と残りの山百合全てを一口で飲み込んだ。
「契約はこれにて成立じゃの。さてもそれでは先に我の欲するものを戴こう」
「誓いはきちんと守っていただけますか」
「いくら我とて山百合の誓約を破る勇気はないわ」
さあ、としなやかな手が差し伸べられる。向かう先は、エルゼリオ。
「そこななりそこない。名を名乗るがいい。名から喰らうてやろ」
オリヴィアの悲しそうな瞳を微笑みでかわし、エルゼリオは一歩女王の前へ近づく。するりと二人の手が離れ、ますますオリヴィアは泣きそうになる。そんな姿を見ないよう、エルゼリオは真っ直ぐ女王を見据えて、言葉を発した。
「なんじゃ、なりそこない。いくらなりそこないとて精霊との契約にファーストネームだけで事足りると思うてか。主の一族の名も名乗れぬとはどういった了見じゃ」
女王はむっとしたようにエルゼリオの髪に触れる。しゅるりと流れる髪が女王のそれと重なり、美しい闇の絹糸が絡まることなく流れ落ちる。
「僕はファーストネームだけで契約を交わせるのです、闇色に輝きし眩き女王」
「証は」
女王の視線にもたじろがず、けれど少し戸惑ってオリヴィアを盗み見た後、エルゼリオは顔を上げ、広く響く声で応えた。
「エルゼリオの名において。宵闇の女王の加護の下、遠きより我が手に『明星のコーストース』を」
エルゼリオが左手を前に伸ばすと、その背後から「うわぁッ」とリュミナスの声がした。そちらに視線を移した女王は、リュミナスのマントの下からエルゼリオの手元へ一振りの短剣が飛んでくるのを見た。そしてエルゼリオの手元へ視線を移そうとした瞬間、短剣はそれよりも早く女王の喉元へ。
「何で君が持ってるのさ、リュミ」
動かず、女王を見据えたままエルゼリオが訊ねる。
「いやちょっとナウザまで足を運んだ時に裏市で見つけてあんまりに珍しくて見たことない物だったしオーラも相当出てるし丁度手持ちに余裕もあったしで買ったんだけどまさかそんなすごいものだとは思いもよらなくて」
マントの下から覗いた大量の武器類を一瞥すると、相変わらずだねと溜息を吐く。けれど女王を見つめる瞳に動きはない。まっすぐと、今にも斬りかからんとする攻撃的な視線で女王を見据えている。
「そうか、我の加護を持つか」
それに、と呟き女王は唇の端で笑うと、短剣の切っ先をずらすと、その刃を愛しそうに指で撫で、目を細める。
「宵明のが宵待の娘御の旦那に贈った『明星のコーストース』か……我だけでなくあやつらの加護をも使う主の血を知りたいものだの、なりそこない」
「今必要なのは僕の血でしょうか、漆黒の底に立つ唯一の女王」
く、と喉の奥で笑うと、女王はエルゼリオの長い髪へと指を動かす。
「否、気が変わった。この闇色の糸をいただこうか。主の目が完璧であれば目も戴きたいところなのだがな」
「不完全でよかったと、今ほど思ったことはありませんね。金と銀の目を持つ女王」
「それは残念じゃ。――ならば、エルゼリオ」
「ではここに、望みの一つを。宵闇の女王」
二人の瞳が合わさった時、どちらの力だろうか短剣・明星コーストースが宙を泳ぎ、ざくりとエルゼリオの髪を肩の上で切り落とした。
「……エル」
オリヴィアの声に振り向いたエルゼリオはやはりとても優しい笑顔だった。
「これだけで済んでよかったよ。ねえ、ヴィア」
けれどオリヴィアはまるで表情の作り方を忘れてしまったような顔でエルゼリオを見つめていた。
「もう、心配させないで。女王の加護があるだなんて知らなかったから、本気で心配したのに」
「加護はあっても命が助かるかどうかは正直五分五分の賭けだったよ。女王が優しい方で助かった」
そっとオリヴィアを抱きしめる。
「そういったことは後でやられよ。主らの望みが叶えられぬ」
自分の周りの陣をさらりと手で軽く撫でて消した女王が表情を変えずに横槍を入れる。手にしたエルゼリオの髪はいつのまにか細く長い糸に編まれていて、輪に結んだそれを軽い動作で放り投げる。きれいな円は崩れずに床に着地し、人一人分の大きさ分の空間を作り出している。
「さあ獅子の歌姫よ、歌うのだ。錬命の師を謳う歌を」
女王の声にオリヴィアははっと息を飲み、すぐに歌いだした。やはりコートニーには聞きなれない言葉だらけのその歌に、同じようにまったく聞き覚えのない言葉を呪文のように重ねるのは女王の声。なんだかどちらもひどく耳にまとわりつき、頭の中に鋭い針を打ち込まれる気分にさせる。耳を塞いでも意味はなく、まるで身体の中で歌われているような錯覚にすら陥りそうになる。それなのに耳を塞いでいるのはコートニーだけ。歌っているオリヴィアや、そもそも人でない女王はともかくエルゼリオもリュミナスも驚いた顔こそしてはいるものの、まるでこの音の痛みを感じていないみたいだった。
「まさか」
そしてそれだけ強い音の中でリュミナスの声が意外に大きく聞こえた。
「な、なに? なにが、まさか、なの?」
「古代魔術の書き付けで一度だけ見たことがある。女王の唱える言葉に近い言葉を」
「どんな魔術なの?」
とても言いにくそうなリュミナスが答えるには、丸々一分の時間を要した。
「まさかと思うよ。そんなもの、冗談か失敗作だと思っていたんだけど……魂召喚と言って君は信じるだろうか」
魂召喚。そもそもそれは一体なんだ。言葉通りにしたってわけがわからない。そんなことが可能なのか。それだけの疑問を訊ねる時間は一秒もなかった。女王が現れた時のように自然に、まるで当たり前のように闇色の糸で囲われた空間に人影が立っている。見覚えのない、人影が。
「実体世界に呼ばれるなんてもうないと思っていたのに誰だよオレを呼んだのは」
炎のように赤い髪に混ざる白色は鳥の羽根のようだった。髪と同じ赤の瞳は幼く、上半身を露にした褐色の背中にハ鳥の翼を模したブルーのタトゥが描かれている。そんなこの場の誰より幼い少年の姿に女王はさも楽しげに微笑みかけた。
「また趣味のいい姿で現れたな、錬命の師」
錬命の師。そう呼ばれるに値する人物は長い歴史にたった一人。コートニーがつい数日前に聞いたばかりのその名前は確か。
「――メルメ・アリオット」
千年以上昔の伝説の魔術師、その人だった。