五夜・少女の決意


その日の夜はそのままもう一部屋だけ追加して、エルゼリオとリュミナス、コートニーとオリヴィアの二組に別れてそれぞれの部屋で眠ることにした。気を失っていたオリヴィアは、コートニーが夕食をして戻ってきた時もまだ眠ったままだったのに、コートニーがベッドに入って数刻後、身体がなんだか落ち着かなくなって夜中に目が覚めた時には窓辺の小さな机に大量の本を積み重ねて読みふけっていた。
(約束を、果たそうとしてくれているのかしら)
じっと見つめている内に、窓から洩れる星明りとランプに照らされた美しい赤毛が愛しくすら思えてきそうになる程綺麗な少女だ。
「……起きたの、お嬢ちゃん」
じっと見つめていたのがばれたか、オリヴィアがゆっくり振り返る。メイクを落とした素顔でも気の強そうな表情は変わらず、けれど悲しそうな瞳でコートニーをじっと見つめ返す。
「おじょうちゃんって呼ばれるほど、年は離れていないつもりです。もうわたし、十六なんですよ」
「それはごめんなさい、もっと離れてると思ったわ。……からかってるとかじゃなくてね」
「そう聞こえました」
「……ごめんなさい。本当にそんなつもりはなかったのよ」
「別に怒ってないから、謝らなくてもいいですよ」
二人とも、互いに声から気持ちを読み取れない。コートニーはベッドを伝ってオリヴィアのすぐ後ろまで移動した。床にまで散らばり落ちた本を一つ拾ってぱらぱらと中を見る。文字すら読めないコートニーにはなにが書かれているのかさっぱりわからないが。
「元に戻す魔術、できそうですか?」
「……本当はね、一度試したのよ。最初に貴女に術をかけてすぐに」
え、と驚いたように声が漏れた。見るとオリヴィアは申し訳なさそうな笑顔でコートニーを見つめていた。
「まさかそんな風に術の効果が出ると思わなかったの。元々、古代魔術を調べる内に見つけた悪戯みたいな術のひとつで、一応対になる術を組み立てて効果を相殺できるようにはしていたんだけど……もちろん効果はなし。だから、どうしてそんな耳になってしまったのか原因を探るところから始めているんだけど……私の資料ではその原因すら分からないの」
ごめんなさい、とまた謝るオリヴィアを見ていると、なんだかコートニーまで申し訳ない気持ちになってしまいそうだ。
「ど、どうにもなんとも、ならないの? もっとすごい誰かに助けてもらったり、できないの?」
そうね、と少し考えてから馬鹿らしいとでも言うようにオリヴィアは答えた。
「メルメ師くらいの方がいらっしゃれば、もしかしたらできたかもしれないわね」
「その人、呼べないの?」
「まさか。あんまりにすごすぎて歴史書にも載らない人よ。もう千年以上前の伝説の魔術師、通称錬命の師・メルメ・アリオット。彼くらいの力があればきっと貴女を元に戻して、……私の魔術理論も完成させてくれるのにね」
千年以上ということは、もうこの世にいない。伝説と呼ばれるそれほどの力がなければ元に戻せないということなのだろうか。コートニーは運のなさすぎる自分に嫌気がさしてきた。
「ああ、ごめんなさいコートニー。大丈夫、絶対に元に戻すわ。だから、……ごめんなさい」
許して、と言いそうになった口を抑えて、それでも結局謝罪の言葉しかでてこない。
「明日、エルとリュミナスにも相談しましょう。彼らも魔術師なのだし、もしかしたらいい案が浮かぶかもしれない。一人で考えていても煮詰まるだけだものね。だから安心して寝ていいのよ、コートニー」
額から頭にかけて不思議な手つきで撫でられる。そこでふと、オリヴィアの手が止まった。
[コートニー、貴女身体に違和感とか、ない?」
「そういえば、なんかお尻の辺りがむずむずします」
それで目が覚めたのだった、と思い出してそう言うと、オリヴィアは慌てたようにコートニーの寝間着の下衣に手をかけた。
「わ、わ、オリヴィア、なにをするのっ」
その答えがもらえないまま、オリヴィアの手は遠慮も容赦もなく、ゆるいズボンを下げてしまった。
「わわっ」
真っ赤になった顔を隠したコートニーに、オリヴィアは思わず怒鳴ってしまう。
「尻尾が生えてきちゃってるじゃない、どうするのよ!」
「どうするのって、どうかしてくれるのはオリヴィアでしょう!」
いいから早く手を離してよ、と叫んでようやくベッドの中へと逃げ込むことが出来たのだった。

「変換系の魔術の二乗がけのリスクは高い。まして生物に対する変換術は、実験でも成功した記録がないのだからリスクどころの話じゃない」
「ええ、けれど術緩和や相殺をするにはコートニーにかけた術をもう一度計算しなおさなくちゃいけない。それには余りに時間がかかりすぎると思うの。術によっては一定期間以上経ってしまったら身体に完全定着してしまって解くことが出来ないこともあるという事態を考えれば二乗がけを試してみる価値もないことはないと思うんだけど」
ここは朝食の席のはずだ。他の客から離れるように一番壁際のテーブルを占拠した四人は朝の爽やかな雰囲気なんてどこ吹く風、隣のテーブルも使って魔術書らしき本やメモの束を広げられるだけ広げている。コートニーだけが唯一人、目の前のトーストとスクランブルエッグ、それに大きめのベーコンを美味しくいただいている。
「二乗がけする術の計算にも時間はかかるだろう」
「けれど術の解を割り出してそこから術を組み立てるよりはずっと早いはずよ」
「どちらもリスクが高いね。いっそ薬術の方向から考えてみるとかはどうかな」
「もっと希望は低そうだ」
コートニーが食事を終えてもまだ話し合いに結論は見えないようだった。話の中心人物であるはずの自分が一番他人事のような顔でいたことが申し訳なく思われつつも、魔術なんてこれっぽっちも知らない身であるので言葉を挟むこともできない。一人疎外感すら覚えながら食後のミルクティを冷めるまでかき混ぜていると、話の風向きが突然変わった。。
「ねえオリヴィア。俺たち考えたんだけどね、精霊王に会うなんてどうだろうか」
精霊王。それは神と人との間に存在し、世界を構成し形作る全ての源とされる存在である精霊達の王。唯一人彼らを統べる王は精霊神とも呼ばれ、神の席の一つにもその名を連ねている。
「精霊王だなんて何を馬鹿なことを言っているの」
「王は無理でも名を持つほどの上位精霊くらい、オリヴィアの知識と力があれば十分呼べると思う。幸い古代魔術の中でも精霊召喚は解読済みだし成功例もある」
「成功例って言ってもほんの弱い下級の精霊ばかりじゃない。それをいきなり名前持ちレベルの精霊を呼び出そうだなんて……」
「俺とエルが一晩考えた結論だよ。上位精霊レベルなら魔術への介入も可能だと言われているのだしね」
「でも誰もそんなこと証明していないのよ」
「だから俺たちが証明してやればいい」
「……失敗したら? 私たちだけならともかく、今はコートニーが……」
「俺が守る」
真っ直ぐに言い切ったリュミナスの表情も視線も真剣で、オリヴィアは思わず目を逸らし、コートニーへと視線を移す。
「……今の話、わかったかしら」
コートニーもまた、真っ直ぐな、秋の森や大地を思わせる純粋なブラウンの瞳でオリヴィアを見つめ返す。
「全部はわからなかったし、魔術のこともなにも知らないけど、つまり、強い精霊に、何とかしてくださいってお願いするのよね」
「成功するかも分からない、失敗したらどうなるかも分からない。それでも、他にすぐ行動に移せる方法はない」
対するオリヴィアのブルーの瞳は、今はとても複雑な揺れ動き方をしていた。浅瀬の波のような迷い。それは言外にどうするかと問うようだと、コートニーは思った。決定権は、自分の手の中にあるのだとも。
「わたしは、それでいいと思う」
「コートニー」
「失敗して、それで死んでしまっても悔いはないわ。何にしたってこの姿のままでいるよりもずっといい」
「そんなことにはさせないよ。俺が守るんだから」
くしゃり、とリュミナスの大きな手がコートニーの金の髪を撫でる。少し、恥かしい。
「本当に、いいの?」
オリヴィアの再度の確認に、コートニーはふわりと笑って、けれどきっぱりと言った。
「オリヴィアも言っていたじゃない。誰だったかしら、すごい人がいたら、わたしを元に戻してその上で自分の理論も完成させられるかもしれないって。そこまでじゃないかもしれないけど、でも誰か助けてくれる人がいるなら、精霊でもいい、誰もいないよりいいと思うの」
オリヴィアは少しだけ悲しそうな笑顔になって、エルゼリオを見る。
「エル、またお願いをしてもいいかしら」
「もちろん。言われなくてもやるつもりだったよ。この結論を出した時から」
笑って、オリヴィアの額にキスをする。キスを受けた乙女の目からは、なぜだか涙が一筋零れた。

***

「魔術の基本は三つの要素。言霊と媒体、それから陣。この三つが揃って初めて魔術は発動する。理屈はともかくそれだけはわかる?」
「どれかひとつでも欠けたら、魔術は使えないということなのね?」
「その通り」
精霊を呼び出そうと決めた日から三日後、四人はエリン神殿にいた。オリヴィアとエルゼリオはなんだか申し訳なさそうにこそこそとしていたのが少し気になったが、神官は特に何を言うでもなく四人を北の塔に案内してくれた。すぐに持って来た大量の書物や媒体に使うという様々なものを部屋中に広げ、塔の最上階を借りて精霊召喚のための準備を始めたのだった。その手伝いをするものの、一人だけ魔術に関する知識が全くないコートニーに、リュミナスが魔術の基本を教えていた。
「言霊は呪文。口に出す言葉全てには意味があり、力がある。だからどんな言葉もなにかしらの結果を生み出すんだ。……言ってる意味、分かる?」
「ええと、具体的にどういうことなのかしら」
「そうだね、例えば」
ふむ、と少しだけ考える仕草をして、リュミナスは何か面白いことを思いついた子供のような笑顔になって、コートニーの耳元へ顔を寄せる。
「わ、わ、なにしてっ」
「好きだよ、コニー」
「! な、なにを言っているのっ」
「……という風な言葉は相手をどきどきさせたりその気にさせたりするでしょう?」
なんでもなかったようにけろりと笑うリュミナスに、コートニーは真剣に腹が立ってきた。真っ赤になってしまった顔を見られたくなくて下を向いたまま、それでも許せなくて怒った。
「ひどいわ、リュミナス。もう、冗談でもそういうことを軽々しく、しかも、しかもそんな風に言わないでほしいわ」
「ふふ、ごめん。でもあながち冗談でもないんだけどな」
軽く髪を撫でる手が柔らかで、熱い。
「とにかく言葉には力がある。だからより強制力のある誓いを立てるときや、自分の持つ魔力を使う術のときには自分の名前の力を使うんだ。名前はその存在を縛る言葉だから、どんな言葉よりも強い。相手の名前を知らないで誓いを立ててしまったら、その誓いは果たされなくても仕方がないと言われるくらいね」
より親しい相手だけを愛称で呼ぶという風習もその言霊の考えが元なのだろうか。きっとそういうことだろう。愛称と言うくらいだ。きっと込められるのだろう、名前に、愛が。
「次が媒体。これは具体的には魔力の源。すべてのものには魔力があり、その力を借りて術を使うのが基本。ほら、祭の時には神や精霊に供物を与えるでしょう? それは、彼らの守護に対する同等の礼。それやお金と品物やサービスのやり取りとかと同じで、魔術を使う、その必要な力に応じて媒体を消費するんだ。ポピュラーなのは宝石かな。石には特に魔力が宿りやすいから。魔力の強さに拘らなければ安いものも多く、手に入れやすいしね」
そう言われると、リュミナスもオリヴィアもエルゼリオも、身につける宝飾の数がとても多い。今まで見てきた人の数なんてそれほど多くないけれど、それでもその中の誰よりもたくさんの宝石を身につけているのは大概にして魔術師だった。
「最後に陣。これがなにより一番大事かな。今ほら、オリヴィアが描いてるだろう」
リュミナスが指差した先に視線をやると、オリヴィアが自分の身体と同じくらい大きな紙に、なにやら丸だの三角だの色んな形や文字のような記号を真剣な表情で描いていた。
「陣は言霊の力と媒体の力をより集め、形にする。一番表現がしにくいんだけど、とにかくないと困るんだ」
「ふうん。陣はどれも同じなの?」
「いや、術によって全く異なる。ひどければ時代によっても違うけど、まあその辺は省略するとして。魔術の発動目的によって陣に描かれる紋様なんかが変わってくる。描かれるのは円やトライアングルを基礎に紋や式、解と称される魔術の計算式やその解式。この辺は魔術をきちんと学んでいないと組み立てられないだろうね」
「だから、学校があるのね」
「そういうこと。特に俺たちの学んでいるロロット・リィゼは魔術教育のレベルは相当高いっていうのが教授たちの自慢らしい」
「じゃあちゃんと勉強しないと、魔術師にはなれないわけだ」
「逆に言えば、勉強さえすれば誰だって魔術師にはなれるってことだよ。強い魔術を使えるか使えないかを別にすればね」
「強い魔術を使うためには、強い魔力が必要なのね」
「理解してきたね」
「これでも、頭は悪くないのよ」
けれど実際に陣が部屋の床いっぱいに描かれるころには、コートニーはもうなにがなんだか分からなくなっていた。白のチョークで引かれたラインは少しでも触れれば消えてしまうから近付くなと怒られた。そうして描かれた陣の上に、一見無秩序に置かれたたくさんのもの――例えばハーモニカだったり、例えば鳥篭に入った山百合だったりしたそれらは、部屋の真ん中にあって邪魔かと思ってどかそうとすれば動かすなと怒られた。
「さっぱりなにがどうなって、どうしていいかわからないんだわ」
「コニー、君にかかったオリヴィアの術は、今から発動しようとしてる術とはまったくの別理論で構成されてる。だからそんな君が媒体の一つにでも触れようものなら術はきちんと現れないんだ」
つまり何にも触らずじっとしていろということか。優しいエルゼリオの笑顔すら、自分を邪魔者扱いしているようでいらいらする。
「コートニー、貴女の居場所はここよ」
南壁際に小さな、一人が立つのがやっとというほど小さな陣が描かれていた。その中心に立たされたコートニーは不満気な表情を隠しきれていなかったらしい。オリヴィアが困ったように微笑んだ。
「ごめんなさい、コートニー。でも貴女の身体に染み付いてしまった術理論は召喚の術の場にあっては本来いけないものなの。だけど一人だけ、別の場所にいてなんてそこまでは言えないから、この陣の中でじっとしていて頂戴。ここは貴女を守る場所。他に影響を受けず及ぼさずの絶対防壁だから」
オリヴィアにそうやって説得されるとなんだか弱い。ごめんなさいと最初に言われては怒る気も失せるというものだ。コートニーは仕方ないという表情を作って自分の為に作られた陣の中央に立った。
「絶対、成功させてね」
「ありがとう、もちろんよ」
小指を絡めて、約束の印。手が離れるとオリヴィアはすぐに踵を返し、東側の壁へチョークの線を消さないように足早に向かった。
「さあ、準備はいいかしら」
部屋の中央に立ったのはエルゼリオ。そこに描かれた円は二つ。一つはエルゼリオが立っている、銀の粉で描かれたもの。一つは金の粉で描かれていて、そこにはまだ誰も立っていない。オリヴィアの定位置は東壁際。青の絵の具で描かれたのはトライアングル。一方西には緑の石が散りばめられたトライアングルと、その中央に立つリュミナス。それら全てを繋ぐように描かれた白いチョークのラインは、その途中や中にも様々な図形や式を描いていて、一体何がどれほどどうやって描かれているのか、部屋の隅から見るばかりのコートニーにはさっぱりわからなかった。
「今から一時間ばかりそのままじっとしてもらうことになるけど、コートニー、頑張れる?」
「い、いちじかん?」
「うん一時間」
よっぽど無理と答えたかったけれど、三人も同じように一時間動かずにいるのだろうことを考えると、負けられない気持ちになって大丈夫、と答えていた。
「オッケ、じゃあ行こうかオリヴィア、エルゼリオ」
「うん。お願いするね。……ヴィア、笑って。大丈夫だから」
エルゼリオの言葉にこくりと泣きそうな笑顔で頷くオリヴィアを確認し、リュミナスは呪文の詠唱を開始した。
「アル ル ラブ 大地よりの祝福を受けし人間の子、リュミナス・ユノの名は恵み」
「ラブ ル アル 古よりの王国の主 その血受けし我が名はオリヴィア・ライオット」
呼応するようにオリヴィアが続ける。そのまま二人は交互に似たような呪文を唱え続ける。それは時に聞いたことのない不思議な言葉であったり、時に聞きなれた、けれどとても古い言い回しの、意味の理解しにくい言葉であったりした。そのままたっぷり一時間、誰一人動かず、ただ北側の壁に吊られた白いカラスが時々弱々しくその羽を動かすくらいだった。
(魔術を使うのって、こんなに、大変なんだ)
どきどきと高鳴る胸に、動いてしまいそうな耳と尻尾を抑えるのに苦労した。そしてぴったり詠唱を始めてから一時間後、いつの間にか二人の声が揃って同一の呪文を唱えていたのがぴたりと止まった。最後の言葉は『ビゥゾォイヤ』という聞きなれない単語。自分で発した言葉に驚いた顔をしたのは何故かオリヴィア。
「なんてこと!」
リュミナスはしてやったり、という顔で笑い返す。
「どうせなら大物呼んだ方がいいと思ってさ。言っただろう、鳥篭に咲かせるのは山百合で、北に置くのは白いカラスと深い夜に汲まれた月を映した湖の水だと」
何のことを言っているのだろうと首をかしげたコートニーの目の前に、いつの間に移動したのだろうか、リュミナスの背中があった。
「え、え?」
驚くコートニーを背に庇う様に立ったリュミナスの口からまた、驚かされる言葉を聞く。
「さあ、精霊女王のお出ましだ」