四夜・魔術師との約束


山間の小さな村、ダグダ村。そこでの再開は喜ばしいものでは決してないようだった。しばらく静寂が続く間に、太陽はオロゾの山へ帰っていた。そしてようやく、小さな声が返ってきた。
「私はただ、自分の正しさを証明したかっただけなのよ」
コートニーは恐る恐る彼らの元へ近づいていく。廊下はとても静かなもので、他に誰も通らない。その中にあって余計に響く囁き声が、なんだか泣いているように聞こえたのだ。本当にあの声は、あの強気な物言いでコートニーに魔術をかけた、あのオリヴィアなのだろうか。
「君のその自己満足の為に学校中が大騒ぎになるだろうことを予想もしなかったのかい。それともそうなることを望んでか? なんにしたってエルゼリオまで巻き込まなくともいいのじゃないか。オリヴィア、君は一体エルゼリオに何をしてそんな姿にさせたんだい」
そんな姿、とリュミナスは静かに言った。どきっとしてコートニーはリュミナスの背から部屋の中を伺い見る。暗くなった室内には灯りのひとつもなく、何があるのか把握するのが難しい。目を凝らしてよくよく見れば、窓際にすらりとした、けれど明らかに覇気のない女性のシルエットが見える。オリヴィアだろう。ぐるり、と宿の外観と同じかそれより広い室内を見渡すと、入り口から見て左壁に設えられたベッドに誰かが横になっているのが見えた。
「リュミ、そんなに怒らないで。ヴィアだって悪いことをしたって自覚はあるんだ。だから君に伝えられなかった。君はいつだってそうやって正しく怒ってくれるから。でもそれどころじゃなかった。一刻も早く結果が必要だったんだよ」
横たわったまま、細いアルト気味の声が聞こえた。聞いたことも顔を見たこともないけれど、エルゼリオの声だとすぐにわかるような不思議な声だった。
「それにそんなに怒ることではないよ。僕は少し疲れただけで何でもないのだし。むしろヴィアの方が横になって休まないといけないくらい疲れているのに。ヴィアはちっとも休もうとしないのだもの。そっちの方を怒ってくれないかな、リュミ」
光の粒になって消えそうな声で明るく言うエルゼリオ。それなのにオリヴィアもリュミナスも動こうとしないし声も出さない。なんだか居た堪れなくなってやっぱりこの場にいない方がいいかなとコートニーがそうっと一歩退いた時、またエルゼリオが口を開いた。
「あと誰かになにかをしたというところで怒るなら、それは僕よりむしろ道中に出会った女の子のことで怒るべきだよ。彼女は僕よりずっと性質の悪い状態にされてしまったのだから。ねえ、星の森のお嬢さん」
「!」
驚いたようにリュミナスとオリヴィアがコートニーの方へ振り向く。立ち去ろうとしていたコートニーはびくりと硬直し、えへへと誤魔化すように笑った。
「お、お邪魔して、ごめんなさい。わたしには、よくわからないお話みたいだから、あの、もう行くので、気にしないで続けてください」
一歩ずつそろりそろりと元来た廊下を戻ろうとするが、リュミナスの力強い手とエルゼリオの静かな声に引き留められる。
「駄目だよ、お嬢さん。君にも関係のあることなのだから。行っちゃいけない。それにヴィアはリュミよりも君にこそ怒られるべきなんだ。そうだろう、獣の性質を与えられてしまったお嬢さん」
どきり、としてフードを強く引っ張った。その様子を見てオリヴィアが身をこわばらせたのが雰囲気で分かる。
「そ、そりゃあ、こんなことになって、すごく腹は立ったし悲しかったです。でも、ちゃんと元に戻してくれたら、それでいいと思ってますから」
なんだかこの場の空気に居た堪れなくなって、あわわと弁解するようにまくし立てた。けれど痛々しい空気は変わるどころか、より一層重くなる。どうしてだろう、そんなに難しいことを言ったつもりはないのにとコートニーは不思議に思う。
「コートニー……」
リュミナスがひどく申し訳なさそうに名前を呼ぶのが聞こえたのと同時にぼっと小さな音を立てて、ランプに灯りが点された。ベッドサイドのランプにエルゼリオが手を伸ばしているのが見える。
「コートニーというのだね。僕からもごめんなさい。あの時、ヴィアを止めなかった僕にも責任はある」
ささやかな灯りの中で見るエルゼリオは、ひどく線の細い少年だった。炎のオレンジに照らされてはいるものの、その肌の白さはミルクのよう。闇がそのまま絹糸になったような髪がさらさらとベッドからも零れている。宝飾の類は目立つほどなく、ただ右の目を覆うように包帯が巻かれていて、金の瞳が猫のようにコートニーを見つめていた。その視線は優しく、数日前に森で見たような生気のなさは微塵も見受けられなかった。
「こんな簡単な言葉で許してもらえるとも思っていないけれど、そう謝るしか今の僕らにはできないんだ、ごめんね」
どういうことだろう。あの時、術をかけた時のように簡単に元に戻してくれないのだろうか。どうしてこんなに、悲痛な雰囲気が漂っているのだろう。
「戻して、もらえないんですか」
小さく呟いた言葉は、誰かの耳に届いたのだろうか。なかなか誰も答えてくれない。少しの時間が長く感じる。ようやく口を開いたのは、リュミナスだった。
「先に言うべきだったね、コートニー。君のように性質の変換をかけられてしまった術の成功例は今までに、……ないんだ」
「え」
「前例のない術を解く方法なんてのも勿論ない。だから、すぐに君を元に戻すなんてことは、……できないんだよ、コートニー」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
「それじゃあわたしは、ずっとこのまま? このままずっと、獣に近づいていくのを待っていなくちゃ、いけないの?」
怒りを通り越して涙が出てきた。救いと信じてオリヴィアを追ってきたこの数日は無駄だったのか。
「運が悪いにも、程度ってものがあるじゃない……」
確かに運が悪いとしかいいようがない。リュミナスは確かにそう言いたくなって俯いた。そして同じ事を数日前にも言ったことを思い出しす。
――こればかりは運がなかったとしか言えないけど
――うんが、ないのかな。やっぱり
この娘は不運なのだ。そういう性質なのかもしれない。財布をなくすような小さな不運から、今回のような大きな不運まで。やっぱり、と言うからにはこれまでにもそういった目に多く合ってきたのかもしれない。なんて切ないのだろう。どんな言葉で慰めていいのか悩んでいると、横から優しい声が割って入った。
「大丈夫、今すぐには無理だけど、必ず君を元に戻す。そのための方法をきっと見付けてみせるよ」
「エルゼリオ!」
驚いて、ベッドに腰掛ける青年を見やる。エルゼリオは真剣な表情でリュミナスを見つめ返す。そのやけに自信たっぷりな姿は、彼の言うことがどれ程困難かを知っているリュミナスですら信じて頼りたくなってしまいそうにさせる。
「約束、できる?」
「もちろん。できるよね、ヴィア」
しかもエルゼリオはオリヴィアにそれをさせようとしている。それに気付いてコートニーはオリヴィアを振り返る。それまでじっと身を硬くして話の行方を見つめていたオリヴィアは、突然話が自分の方へ投げられてびくりとした。けれどすぐに気を取り直したように真っ直ぐ視線をコートニーに返し、震える声で誓った。
「約束……するわ。必ず貴女を、元に、戻す」
「誓えるかい、ヴィア」
「ええ、誓うわ。世界の父神オウラと、魔術を司る知神ルルジーンに誓って」
コートニーがほっとしたような表情になったのを確認すると、オリヴィアは糸の切れた繰り人形のように床に崩れ落ちた。
「オリヴィアっ!」
リュミナスが慌てて助け起すが、オリヴィアは完全に気を失っていたようだった。
「安心したんだよ。きっと。ずっと気を張って疲れていたしね」
「安心したってどういうことだ。今ので、余計に気負ったんじゃあ」
「いいや、安心したんだよ、ヴィアは。君たちに見つけてもらえたから」
どういうことかと首をかしげる二人に、エルゼリオは優しい微笑で答えた。
「オリヴィアも寂しかったんだよ。一人でいることに疲れていたから」