三夜・再会の魔術師


「お金がなくなっているわ」
コートニーとリュミナスが出会って翌日、一緒にコーンラッドを出発しようと宿で荷物を纏めている時、それに気付いた。
「なくなったってそんな呑気に呟いて大丈夫なものなのかい」
「うーん、お金ってどう使っていいのかわからないからそういう意味では大丈夫かもしれないけど、でもいろいろと必要だから持たせてくれたはずだから、ないとやっぱり、困るものなのよね」
まるで他人事のように、お金がなくなったことをそれほど困った事態と受け止められないコートニーを、リュミナスは出会って何度目か、呆れたような視線で見つめた。星の森に住む一族の特殊な生活様式(例えば一人前と認められないと森から出ることができないとかそういたこと)は話には聞いていたけれど、その伝統的な習慣の弊害がこんなところに現れるとは。まあこの少女は追放という彼らのルールの中でも例外の処置だから仕方ないのかもしれない。
「どれくらい持たされたのか覚えてないのかい」
「ええと、ええとね。よくわからないんだけど、赤いお金が九つと、あと緑のお金が十あったわ。でも緑のお金は三つをもうここの支払いに使ったから、なくした時には七つになっていたはずよ」
赤いコインは千ブレル。緑のコインは百ブレルだから合計九千七百ブレルを失くしたということか。森から神殿へ向かう旅費としては、質素倹約を心がければお釣りが出るか出ないかという額だ。決して少ない額ではないが、それでもコートニーにとっては全財産。
「まああれだけ何度も転びそうにばたばた歩いていれば落としもするか」
そういえば昨日の夜はリュミナスがご馳走したのだった。目的地までの旅費も、二人分出せない事もない。ざっと簡単に頭の中で計算すると、リュミナスはまあいいか、と一つ息を吐いた。
「こればかりは運がなかったとしか言えないけど、しばらくは俺が立て替えるよ。同行を申し出たのは俺の方だしね」
「うんが、ないのかな。やっぱり」
「やっぱりって?」
「あ、ううん。なんでもないわ。ね、もう行けるよ。準備万端」
少ない荷物を小さくまとめ、被ったフードを整える。そういえばリュミナスは、出会ってまだ一日しか経ってないとはいえ、室内ですら脱がないコートニーのフードの下を未だに見られないでいた。
「ありがとう、おかみさん。おかみさんのご飯、おいしかったわ」
「そうかい、ありがとう。気を付けて行くんだよ。あんたの足下にヴォヤッセールのお導きがありますように」
旅人への決まり文句となっている祝福の言葉も、コートニーには通じていなかったようだ。宿を出て少ししたところでリュミナスが尋ねる。
「ねえコートニー。もしかしてまさかだけど、ヴォヤッセールを知らなかったりするのかい、君」
「それ、さっきおかみさんに言われた言葉ね。なあに、その、ボヤ……?」
「ヴォヤッセール、旅人を守る神さ」
「へえ、神様なのね。スリィジア以外の神様のこと、初めて聞いたわ」
弊害その二。子供なら誰でも知っているのが常識の神話をこの娘は知らないでいる。もう十五やそこらに見えるのに、そんな事があっていいのだろうかとリュミナスは呆れ半分に考える。数多くの神々の、今でも更新される物語。スリィジアはその登場人物の一人でしかない。神であることは確かなのだけれど。
「じゃあ色々と教えてあげるよ。ヴォヤッセールだけでなく、この世界を支える神々の話を」
「本当? 嬉しい。リュミナスは色んな事を知っているのね」
誰でも知っていることしか知らないよ、と言おうとしてやめた。そうじゃない、ただこの少女と自分とではそれまで生きてきた世界の大きさがほんの少し違うだけなのだ。それにそんなもの、一緒に行動する間にある程度自分から身につけるだろうし必要とあらば自分が教えるのも――。そこまで考えて、はたと思考をストップさせる。
(なんで俺がそこまでこの子の面倒を見なくちゃいけないんだ。いくら申し出たのは俺の側だと言っても子守りまで申し出たりはしていないんだし)
ぶつぶつと考えるリュミナスは、基本的に真面目な性分のようだ。そんなことにも気が付かず、コートニーはやはり危なげな足取りで石畳を歩いていく。
「リュミナス、ねえどっちへ向かえばいいの?」
そう尋ねて振り返ろうとした瞬間に案の定バランスを崩して転びそうになったコートニーを支えて、リュミナスはため息をひとつ吐いた。この少女といると一生分のため息を全部吐いてしまいそうな気がする。
「そこの噴水の広場を左だよ。そこから乗り合いの長距離馬車が出てる。オロゾ山の少し手前のダグダ村まで行く馬車が出ているはずだからそれに乗っていこう。歩いていくよりずっと楽だけど座りっぱなしで夜も馬車に乗ったままだから疲労はひどい。それでも移動時間は倍以上違うから我慢してもらえるかな」
今は一刻も早く目的地につく事を考えたい。暗にそう伝えると、コートニーは目をきらきらさせて頷いた。
「馬車に乗れるの? 嬉しい。だいじょうぶ、体は丈夫に出来ているから疲れたりするのは平気よ。でも馬車は見たことがあるだけで乗ったことがないからうまく乗れるかわからないわ。だから教えてね、乗り方とか」
「馬車の乗り方なんて特にないよ、コートニー。ただ座っていればいいだけだよ」
「それは安心だわ」
あくまでもコートニーは真剣に安堵した。その姿を見下ろして笑って良いのかまたため息を消費するべきなのか、リュミナスは判断に困るばかりだった。

リュミナスはロロット・リィゼという、あの大きなお城の学術都市から来たと言った。そこでオリヴィアやエルゼリオと机を並べて共に学んだとも。そんな話を改めて馬車の中でしてくれた。
「俺は元々鍛冶師を目指してロロット・リィゼに行ったんだ。けれどそこで魔術に触れる機会があってね。複雑な陣や式から組み立てられるその奥深さにひどく心惹かれて魔術を習い始め、そしてオリヴィアやエルゼリオに出会ったんだ」
「オリヴィアは俺たち学生の中で飛び抜けて頭がよかったものだから、本格的に魔術を学んでから十年もしないと持てない自分だけの研究室を、その半分の五年で手に入れた。教授たちからの信頼も厚く、またあの美貌だから俺とエルゼリオの自慢だった」
「エルゼリオはごくごく普通の学生だったよ。確かにあいつも綺麗な姿をしていたから、そういう意味では二人と並ぶとほんの少し居心地は悪かった。でも魔術に関してはごく普通で、魔力は変に強い癖に上手く扱えないみたいで実技は苦手、でも陣の組み立てはひどく上手かった。オリヴィアも、エルゼリオの助けがなかったらあと二年は研究室を持てなかっただろうと手放しで褒めていたくらいだ」
馬車の中、そうやって昔の話をするリュミナスは楽しそうだったり寂しそうだったりで、コートニーはただじっと流れてくる言葉に耳を傾けるばかりだった。
(わたしの、知らない世界のお話だわ)
それでも新しい知識を仕入れるのが楽しくて、頬が緩む。けれどだんだんとリュミナスの表情は硬く切なくなっていった。
「つい先月の話だ、二人が突然姿を消したのは。三年間使った研究室にも足取りのヒントは残っていなくて、ロロット・リィゼ全体が大騒ぎになった。流石に十日もすれば大騒ぎしているのは魔術部の教授達くらいになっていたけれどね。けれどずっと友達だと思っていた二人に、何の伝言もなくただ一人残されたんだよ、俺は。あんまりに悔しいから探し出して問い詰めてやろうと思ってこうして今に至ってるんだ」
「二人は恋人同士で、その為に二人だけになりたくて姿を消したとか、そんなお話じゃないの?」
「茶化さないでくれるかな。まあ二人が恋仲だったのは確かだし、俺が二人きりになるのを邪魔していたのももしかしたら事実かもしれない。でもその為に駆け落ちなんてするようなやつらじゃないよ。少なくともオリヴィアはそんな女の子らしいメルヘン思考を嫌っていたから絶対にない」
馬車に乗って二日目の夜。何事もなく静かに旅は進んでいた。
「明日の昼にはダグダ村に着くらしい。順調に来てるみたいだね」
御者席に様子を見に行っていたリュミナスが戻ってきてそう伝えてくれた。コートニーはうとうとと落ちそうな瞼と意識をなんとか持ちこたえながらわかったとだけ頷いて、再び夢路への船を漕ぎ出した。その様子を見てふわりと無意識に笑みが浮かぶ。オリヴィアのように意志が強く純粋で、けれど彼女ほど世間に擦れていない様子は幼く、守るべき少女性そのもののようにも思える。
(あ、フードが)
座ったまま、壁に身体を預けて眠り込んでしまったためにずれて脱げそうになっている。まだ誰の前でも脱いだことがないのは、それほどに彼女がそのフードの下をひた隠しにしようとする意思からだろう、その意思は尊重すべきと手を伸ばして直そうとしたのだけれども。
「う、んん……」
タイミング悪くコートニーが体勢を変えてしまい、うっかりフードを引っ掛けて脱がせる羽目になってしまった。そしてそこに、見てしまった。髪よりほんの少しだけ濃い小金色の獣の耳を。

***

翌日、太陽が頂点をほんの少し過ぎた頃にコーンラッドからやってきた大型の乗り合い馬車がダグダ村に着いた。乗客は自分の荷物を手早く降ろし確認すると、そのまま小さな村のあちらこちらへ姿を消していった。
「すごいすごい、山が近いのね。あの山がオロゾ山なの? あそこに二人はいるのかしら。ねえリュミナス」
三日間、居心地のよくない馬車に座りっぱなしだったというのにコートニーは元気にはしゃいでいた。対してリュミナスは昨夜思いがけず見てしまった出来事を考えるので精一杯という風だ。
「どうしたの、リュミナス。疲れたの? それなら神殿に向かうのは明日にして、今日は休む?」
「え、ああ、そうだね。今日はとりあえず宿に行こうか。君も疲れてるだろう、すぐに休むといいよ」
「わたしはあんまり疲れてないわ。むしろ元気いっぱいなのに」
「それは疲労から来る空元気かもしれないよ。自分ではわかってなくても疲れているものなんだ。ベッドに飛び込んでごらんよ、ものの三秒で眠ってしまうから」
「そんなものなの?」
「そんなものだよ。おいで、こっちに顔馴染みの宿があるからそこに泊めてもらおう」
コートニーはわかっていない。自分がどんな境遇に立っているのか、理解しきれていない。ただ術をかけられたというだけでは済まない事態にあることに、リュミナスは思い至った。
(何を考えているんだオリヴィア……っ!)
その胸中を欠片も知らない当の本人はリュミナスに連れられるまま、村の端にある小さな、小屋と呼んでしまいそうなほど小さな建物へと向かっていった。
「わ、小さくて可愛い。でもこんなに小さいとリュミナスが泊まるところなんてあるの?」
自分ひとりだけでも満足に手足を広げて寝ることはできそうにない。それくらい小さなミニチュアのような宿だ。建物の外観はコーンラッドにあったものによく似ているが、両開きの扉の左右に開いた窓に鉢植えがきれいに植えられているのが印象的だ。屋根も藁葺きでより質素な造りになっている。
「まあここはね、ちょっと特別なんだよ」
そう言ってリュミナスが扉を開いてそのまま屈んで通り抜ける。するりと扉の向こうに消えられて、コートニーもあわてて後を追いかける。
「え、あれ、あれれれれ」
ぽかん、と開いた口が塞がらない。呆れたのではない、驚いたのだ。
「おいで、コートニー」
リュミナスがなんでもない顔で中へと促すけれど、コートニーにはそれどころではない。
「こんな、こんなに広いのは、いくらなんでも、変だわ。わたしにも、それくらいわかるもの」
「ふふ、これにはちょっとした仕掛けがあるんだけどね、まあ今夜にでも説明してあげよう。さ、シーモさんに挨拶して部屋を借りよう」
背中を軽く押してカウンターまでエスコート。そこにいたのはコートニーの胸くらいまでの身長をしたヤマネズミの女主人だった。
「こんにちは、シーモさん。お久しぶりです」
「あらあらあら、ユノの坊や、いらっしゃい。まあまあまあ、可愛らしいお嬢さんもお連れなのね」
「ちょっとした事情があってね、コートニー。こちらシーモさん。ダグダ村唯一の宿屋の主人だよ。ラグ族の人だから、細かいことまで気が付いてくれてとてもいい人だよ」
「こんにちは、コートニーです。よろしくお願いします」
ぺこり、と深くお辞儀をするその様子をシーモはくすくすと眼鏡をかけた目を細める。
「あらまあまあ、いいお嬢さんに出会えたのね、ユノの坊や。大事にして放しちゃだめよ」
「ちょと、勘違いしないでよシーモさん。コートニーはそんなじゃないって」
「ふふふ、いいのよ照れなくて。早く愛称で呼んであげなさいね」
違うのに、と頭を抱えるリュミナスを楽しそうにつつきながらシーモは思い出したようにそういえば、と話を続けた。
「そうそうそう、ライオットのお嬢さんがエルゼリオを連れてお待ちだわよ。なんだか二人とも具合が悪そうだと思ったけれど、ちゃんとユノの坊やを呼んでいたのね、安心したわ」
瞬間、リュミナスとコートニーの表情が固まる。
「なん、だって……? オリヴィアとエルゼリオが、ここに、今、いるのか」
「ええそうよ。あらあらあら、知ってて来たのじゃなかったの?」
シーモが首をかしげるとほぼ同時にリュミナスが走り出す。ロビーはコーンラッドで泊まった宿よりもずっと広く、テーブルではラグ族の夫婦らしきカップルがお茶を楽しんでいるのが見える。そのロビーをずっと奥まで行ったところに階段があり、リュミナスは一目散に駆け上っていった。
「わ、待って、待ってよリュミナス!」
コートニーも急いで追いかけるが、何せ慣れない床の上。ばたばたと階段を上るところまでは行けたが、二階に着いたところでまったくリュミナスの姿が見えなくなった。
「リュミナス……」
がらん、と広く長い廊下を左右に見回すけれど人影の一つも見当たらない。
(どうして、こんなに、広いの)
仕掛けがあると言っていた。それを教えてくれると。それなのに、いなくなっては教えてもらえないではないか。寂しさと一緒に涙がこみ上げてきて目をきつく閉じる。視界が遮られ、耳と鼻をぴくりとさせる。フードの中にあっても獣の耳はひどく敏感で、微かな話し声を捕まえた。
(リュミナスの声。上からだ)
三階へ上るとより声は鮮明に聞こえる。どうやら言い争っているような、激しい声。声の聞こえてくる方へそっと進んでいく。だんだんと声がはっきり聞こえてくる。三つ目の角を曲がった時に、ようやく見慣れた赤いマントが目に入った。部屋の入口から中に向かって声を荒げて叫んでいる。
「どうして俺の元に来なかった、俺に声をかけなかった! 困ってるなら、迷ってるなら俺を呼べと言ったじゃないか!」
こんなに険しいリュミナスを、コートニーは初めて見る。怖いと思った。そして同時に悲しいとも思った。
「お前が古代魔術の復元を目指して研究をしていたことは知っていたしすごいことだと思う、だけどだからといっていくらなんでも冷静に考えるべきだ。お前は今、自分が何をしているのかわかってるのか! くだらない妄想のまま物事を進めたって何にもならないことをわからないお前じゃないだろう!」
リュミナスは悔やんでいたのだ。友人が姿を消したその根底の理由を微かに知りながら止められなかった自分の不甲斐無さに。そう気付いて、コートニーの目からまた涙がこぼれそうになった。ひどく優しいリュミナスの怒りが、嗚咽のように聞こえてくる。
「お前はそこまでして一体なにを望むんだ……!」