二夜・手掛かりの青年


翌早朝にレフに背を見送られて薄暗い霧の中、生まれて初めて何にも遮られずに山から昇る朝日を見た。太陽が昇ると不思議なことに霧はあっという間に消え、少し先に街らしいものが見えた。他に目印もなかったのでそこへ向かうことにした。ほぼ半日をかけてその小さな街・コーンラッドについたコートニーは、初めて見る外の街におっかなびっくりどうしていいやら早速迷ってしまった。
「どうし、よう。かな。誰かに聞いたら、知っているかな。オリヴィアのこと」
きょろきょろうろうろ、時々つまづきながら街の隅々を歩き回るが誰かに声をかけることも出来ないまま、もう星が瞬く夜になってしまっていた。頭にすっぽり被ったフードの耳垂れ部分をぎゅ、と掴んで引っ張る。寒いわけじゃない。独りが寂しかっただけ。夜になったらどうしろと言っていただろう。確か、当面は宿屋に泊まるといいとレフは言っていた。お金を払って旅人を泊めてくれるところらしいが、一体それはどこだろう。もう人々の姿はほとんどない。皆それぞれの家に入ってしまったのだろう。狭く肩身を寄せ合うように並ぶ家々のどれもに暖かいランプの明かりが灯っていた。
(人見知りなんてしている場合じゃ、ない)
意を決して大通りらしい広い道に面した大きな木の扉を叩く。間もなく両開きの片方だけが開き、恰幅のよい中年の女が顔を出した。
「なんだい、お嬢ちゃん」
「あ、の……あの、やどやを探しているの」
声がひっくり返りそうに乾いている。おどおどと見上げる小さな少女をその女はどう見たのだろう。一瞬ぽかんとして、けれどすぐ優しい笑みに表情を変えて扉を大きく開いてコートニーに中に入るよう促した。
「おいで。うちが宿屋だよ。一番安い、何のサービスも出来ないところだけどね」
ここが、やどや。声に出さずに口の中、頭の中で確認すると、そろりそろりと柔らかい明かりの中へ足を踏み入れる。あまり広いとは言えない建物は、入ってすぐに慎ましやかなロビーがあり、三つあるテーブルの内二つで他の客が食事をしていた。扉から真っ直ぐ入った奥にある階段の横にはL字のカウンターが置かれている。ロビーにとりこまれたカウンターの長い辺にも数人が寄り集まり雑談に興じているようだ。全体的に質素な雰囲気が漂っている。
入り口でぼうっと立ち尽くしたままのコートニーに、不思議そうに女が声をかける。
「どうした、入らないのかい。こんな狭い宿が不満なら斜め向かいのジョージィの宿へお行き。あそこなら部屋付きのメイドがいるからこの街でもとっときのサービスを受けられるよ」
まさかこの少女がそんなに金を持っているわけでもないだろうけど、と軽く見積もりながら。すると少女は弾かれたように顔をあげ、ふるふると横に首を振った。
「ち、ちが、うの。はじめてだから、こんなところなんだって。ええと、ええと」
この気持ちをどう伝えればいいのだろう。この建物に入った瞬間、さっきまで胸にのしかかっていた寂しさが和らいだ。暖かくて涙が出そうになった。ロビーにいる人々は皆質素な姿ではあるが、隣にいる相手とにこやかに暖かに食事をする様子はとても幸せそうに見えた。
「ここが、ここがいいです。あ、でも、お金……お金足りるかな」
腰から提げた小さなカバンからお金の入った袋を取り出そうとしてその手を女に止められる。
「こんな人目のあるところで財布を出すものじゃないよ。金の量に関わらず、どこから盗人が見ているかわからないからね」
そしてそのままコートニーの背を軽く押して中へ迎え入れる。
「お金の心配ならしなくていいよ。足りなくなってもまた払いに来てくれればいい。あんたは金も払わないまま逃げるような子じゃなさそうだしね。部屋はあるから安心おし。今案内しよう。それとも先に食事にするかい?」
「さ、先にお部屋が見たいです」
きっとそこもこんな風に暖かいのだろう。自分が夜を過ごす場所を早く見たくてうずうずしてしまう少女に女は笑いかけて階段を上らせる。
「部屋は三階の一番右端、窓から遠くにお城が見えるんだ。とても綺麗なお城だからあんたなんかはロマンチックな夢が見られるんじゃないかね」
おしろ、と繰り返すコートニーはそれがどんなものかわからなかったが、案内された部屋の窓から外を見ると、それがすぐにわかった。
「すごい、わ、きれい!」
「はは、喜んでもらえたみたいだね。じゃあ荷をほどいたら下においで。簡単だけど食事くらいなら出せるからね」
聞いているのかいないのか、窓の外を見つめたままのコートニーは女がベッドサイドのランプに火を灯して部屋を出て行ったことにも気付かないまま、星明りの中山の上に立つ城を遠くに見つめていた。初めて見るのに、その存在に憧れすら抱いてしまう。大きくそびえるその建物に灯る明かりがここからでも暖かく感じる。どれほど遠く、どれほど大きいのだろう。あそこはどんなところなのだろう。森の外を人づてにしか知らない少女にとっては想像すらもできなかった。
そうして夜は、静かに静かに更けていく。その夜はロマンチックな夢なんて見なかったけれど、柔らかな木漏れ日に包まれる優しい夢を静かに見た。

翌日は日が高くなるまで寝過ごしてしまい、ロビーに下りて準備されていたのは昼食だった。
「うちのベッドでそんなにぐっすり寝るくらいだ、よっぽど疲れていたんだね」
そう女は笑ってサンドウィッチの横にオムレツをサービスしてくれた。簡単な昼食を済ませる間、昨日よりも気が大きくなったのか周りの客にオリヴィアという少女を知らないかと聞いて回ったけれど、誰もが知らぬか同名の別人を思い出すばかりで手がかりはつかめなかった。けれど人に声をかける勇気は掴めたので、宿の外に出て話を聞いて回ることにした。そうしてよくよく街を見てみると、どうやらひしめき合った建物のほとんどが宿屋のようだった。両開きの大きな扉で三階建て、というのがこの街の宿屋の特徴らしく、通りに面した窓は例外なく大きく作られていて中を覗くとコートニーが泊まっている宿と広さこそ違え、ほとんど作りは全て似たようなものだった。
「ああ、そりゃあこの街は宿場街だからね。南に見える城を見たかい。あすこは学都でな、学生だけじゃなく世界中のお偉い学士さんらやそのお方らを相手に商売する商人なんかがようく出入りするんだが、そちらへ北から向かう道がこの街を通っているのだよ。それに北近くにある森だな。あすこには星の神の加護を持つ一族が住むらしく、入るもの出るものが多いもんだが一番近い街がここだから。宿屋は商売に困らんのだよ」
話を聞いた内の一人が長々とそう説明してくれた。彼もまたオリヴィアのことは知らなかったが、この街のことなら任せておけとばかりに話を続けようとしたので、コートニーはやんわりと断ってこっそり逃げることとした。森の外の道はしっかりと踏み固められていて、それどころか石が敷き詰められているので足元が硬くて歩きにくい。何度も転びそうになってはその度なんとか立て直していたが、とうとう一人では体勢を保てず、目の前の背中に勢いよく飛びついてしまった。
「うわ、何?」
硬いその背中の上から少しかすれたテノールの声が驚いたように発せられた。見上げると淡いグリーンの長い髪が揺れ、整った顔が振り返った。
「……えーと。どちら様?」
ぼうっと見つめていたコートニーははっと目を瞬かせ、おろおろと離れようとするが慌ててしまって余計に相手に寄りかかる状態になってしまった。寄りかかられた方の青年は少し呆れたように少女がしゃんと立てるように手をかした。その手際がとても優しく慣れていて、コートニーは少しだけドキドキした。
「ご、ごめんなさい……。あの、ちょっと躓いてしまって、そしたらあなたが目の前にいたものだから、ついしがみついてしまったの」
「それじゃあ次から気をつけて。足下にも、ぶつかる相手にもね。相手が悪ければひどい難癖つけられることもあるんだから」
「はい、ありがとうございます」
こくこくと頷くと相手の青年はそれじゃあと足早に立ち去ろうとした。
(あ、なんかこのひと)
鼻がひくりと青年の服に纏う匂いを捕まえる。
(オリヴィアの匂いの感じに似ている気がする)
同じではないどころか全然違うのに、なんだか似ている雰囲気を感じる。そう思った瞬間、手が目の前にはためくマントを掴んでいた。
「わ、今度は何!」
「ご、ごめんなさい。あの、わたし人を探しているの」
「まさか俺を探してたなんてわけじゃないだろうね」
「あの、あの、違うの。ごめんなさい。でも、あなたが知ってるといいなって思って。あの、オリヴィアって女の人知ってる? オリヴィア・ライオットっていうの。……多分。オレンジ色の長い髪で、きれいな人なんだけどアクセサリーを付けすぎってくらい付けてて、魔術師らしいんだけど、知らないかしら」
興味なさそうに振り返った青年だったが、コートニーが早口でオリヴィアの名前を出すと誰でもが見てわかるほど驚いた表情になった。
「オリヴィアに会ったのか、いつ、どこで!」
今度びっくりしたのはコートニーの方だった。
「おにいさん、オリヴィアを知っているの? じゃあ、エルのことも知っている? 会ったのは二日前、森の中でよ」
「森……星の森か。やっぱりエルゼリオも一緒なんだな。ねえ君、エルゼリオの様子はどうだった」
「ようす、って言われても、マントのフードをすっぽりかぶっていて、顔も見えなかったし、わからなかったわ。男か女かもわからなかったのだもの。でも元気いっぱいっていう風ではなかったわ。なんか、目に入ることすらどうでもいいみたいな雰囲気で」
「……エルゼリオ……」
悔しそうにエルの名前を呟く青年を、コートニーは不安げに見上げる。
「ねえおにいさんはあの人達の知り合いなの?」
青年は目を瞑って小さく頷く。
「俺も彼らを探してるんだ。君よりもほんの少し長くね。ねえ君、オリヴィア達が次にどこへ行くかなんて聞かなかったかな」
「ごめんなさい、わたしはなにも聞いていないの。でも森が、オリヴィア達がオロゾ山の方に向かったのを見たわ。だから少しずつ進んで、あの人達の足取りを掴めたらって、思って」
「オロゾ、ということはエリン神殿に向かったってことか。でもどうしてあんなところに」
そこまで考え、ふと思い至る。
「星の森から来たのだよね、君」
「ええ、そうよ」
「それじゃあ反対だよ。コーンラッドはロロット・リィゼと星の森の間にある。ロロット・リィゼは星の森から見て南だ、オロゾ山とは逆方向になる」
どうしてこっち側に来たの、と尋ねる青年の言葉に対してコートニーはうまく答えられなかった。問いの意味がよくわからない。そもそも北だの南だのなんて方角は地図を知らないコートニーにとって検討もつかなかった。つまり、いわゆる方向音痴。どうやらそれに気付いたらしい青年は困ったように笑って、それじゃあと答えを待たずに話を進める。
「君がどういった理由でオリヴィアを探しているのか知らないけれど、一緒に行くかい?」
「え、いいの?」
「うん。旅は道連れだからね」
なんだか頼りないから誰かが助けてあげないといけないような気がしたから、とは言わなかった。
「俺はリュミナス。リュミナス・ユノ。彼らの昔の友達だよ」
「わたし、コートニー・スルーランス。オリヴィアに魔術をかけられたから、といてもらうために探しているの」
「術を?」
「うん、おかげで森も追い出されちゃったから、なんとしてでも元に戻してもらわないと」
元に、と言った。この少女は一体どんな術をかけられたのだろう。コートニーは被ったフードが慣れないようで、もぞもぞと何度もさわっている。
(フードの中に、何かあるのかな)
けれど相手が言うまでは問い詰めないでおこうと考えるリュミナスは礼儀正しい紳士だった。