一夜・森の民


深い深い森。星の森と呼ばれるそこへ踏み入る人影がその時二つ。
《客か……?》
人の気配に気付くのは森。木々が囁き合い、見知らぬ来訪者を住人達に伝える。伝えられる相手、森に住むのはスルーランスとファミリーネームを名乗る人間種の一族のみ。彼らはこの森でその名にある星の“心”を護っていると言われているが、それが何であるかは彼らの多くにも伝えられない。長老や長役といったごく一部の者にしか伝えられないその存在は、彼ら自身よりも森の外の住人の方が神話の中でその名前をよく聞いているくらいだ。
そんな風に神話に出てくるような一族は、星の神・スリィジアの加護の元、森の恩恵をも受け、木々の助けを受けられる数少ない人間種でもある。そして森に不慣れな人々は、そんな彼らの力を借りることを時として願う。それが旅の最中、森に迷う時であったり、枯れた土地に緑を生もうとする時であったりと様々に。そしてスルーランスの民はそんな人々の助けを求める声を無下には決してしない。乞われるまま、世界中のあちらこちらへ飛び交う姿はまるで神の遣いであると、信心深い年寄りなどは時にそう形容する。
さて木々から来訪者の存在を伝えられた中に、十三、四程の少年達の集団があった。彼らはまだ外の世界へ出る許可が下りていない、所謂『半人前』の子供達だ。
「ねえラウル、今回は誰が選ばれると思う?」
「そうだなあ。やっぱりアディじゃねえかなあ。こないだセスレスから帰ってきたばっかだけどさ、若組の中じゃあ一番強えもん」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。一番強いったらパーシーだろ? アディにも持ち上げらんなかった《長老堰》を持ち上げられんのは今の若組ん中じゃパーシーだけなんだ」
「うわあ出た出たパーシーの腰巾着! アディどころかミーシェにすらこないだ組み手で負けてた七光りのどっこが一番強いんだよ」
わあわあと取っ組み合いでも始まりそうな騒ぎが森の片隅、木の上で。子供達はそれぞれに贔屓の兄貴分がいるものだから、皆自分の贔屓者が活躍するのを憧れと尊敬を込めて望んでいるのだ。特に今、大人達からも子供達からも好かれる好青年であり、一番の稼ぎ頭・アディと、長老の曾々孫であり純粋に力だけなら若者の中で一番強いパーシーとで人気が二分されている。
「なぁ、コニーはどっちだと思う?」
「気安く愛称で呼ばないで、リッド。わたしは別にどっちでもいいわよ」
赤毛のリディから声をかけられたこの集団にただ一人混じっていた年長の少女、コートニーは不機嫌にそう言い放って黄金の髪を緩くなびかせながら木から降りた。
「どっちだっていいよもう。誰が行くにしたってわたしじゃないんだもん」
コートニーは十六歳。男女の別に関係なく十五にもなれば森の外へと出られるのが常だが、彼女は未だにその許しを得ることができないでいた。そのため自分よりも年下の、同じ境遇の少年達とよくつるんで遊んでいるのだけれど、この話題になるとやはり機嫌はいつも悪くなる。
自分の知らない森の外で、それぞれの力を発揮することができ、帰ってくれば森の民の間で誉めそやされる。コートニーだってそろそろそんな風にいい気分を味わってみたい。外からの旅人をこっそり覗き見る事も許されないままに歳を重ねるのはもうそろそろ我慢の限界だ。
「わたし、弱くないわ。森の声は同じ歳の誰よりはっきり聞こえるし、罠の張り方は長役にすぐ選ばれてもおかしくないくらいって褒められた。狩りだって、誰より大きな獲物を獲って、その祝いに森牛の角のお守りももらった。それなのに、何でわたしはまだ森の外に出られないの?」
何度そうやって長老達に訴えたかもう覚えていない。三日に一度くらい言っている気もする。けれどどんなに泣いても怒っても、誰からもいい返事はもらえないまま、あと三月もすれば十七になるというところまで時間は経っていた。
(もうこうなったら、形振り構ってられない)
せめて外の世界の片鱗を。来訪者を覗き見するくらい。森の木々から長老達には筒抜けだろうがそんなこと知ったこっちゃない。そう思い立ち、木々がよりざわめき、見知らぬ匂いの漂ってくる方向へと身軽に枝を飛び伝って向かう。心臓がどくどくと緊張と興奮を奏でる。もう少し、あと少し。あと一区画だけ近付けば、その姿を間近に見ることが出来る。
(いた……!)
森の者とは明らかに違う空気を纏った者をすぐ下に見られる枝に降り立ち、その姿に目を奪われる。
一人は薄汚れた、けれどコートニーにもわかるほどに上質なマントのフードを目深にすっぽりと被って静かに音もなくゆっくりと歩いていた。背は低くはないが男か女かもわからない。ただフードから零れる漆黒の髪はさらさらと長く、腰ほどまでもありそうだった。
もう一人は明らかに女性。それもコートニーより二、三程だけ年上だろう頃の少女。炎よりも淡く、夕日に近いその色の、アディとは違うけれどもとても美しい赤毛。ゆるくウェーブした髪に、そして首や腕、指や服にと体中着けられるだけ着けたような様々な宝飾品は、少しコートニーに違和感を覚えさせた。
(あんなの、あんなにいっぱいつけない方がきっとキレイなのに)
ふ、と宝飾のひとつに目を奪われる。胸を隠す程度のボレロから吊り下げられた中のひとつに。紫の混ざったような深い青色が輝き、まるで夜の闇を削り取ってうずらの卵くらいの雫形にしたみたいな宝石が金の石座に留められている。その青色に吸い込まれそうなくらい身を乗り出して見つめていると、耳に嫌な音が響いてきた。ぱき、と乾いた音に振り向くと、足をかけていた枝が幹から折れそうになっている。
(なにも、なにもこんな時に……っ)
別の枝に足を乗せ変えようとしたが、それより早く枝が折れ落ちた。そのままバランスを崩してコートニーは悲鳴を上げながら地面へとぐんぐん近づいていく。両手を顔に前で組み、身体を丸めてなんとか枝による被害は抑える。森の木々達もなるべく彼女に怪我をさせないようにと葉の茂る大きな枝をクッションのようにコートニーが落ちていくその軌跡上に差し出すが、ダメージこそ軽減するものの落下そのものは止められない。
「どいてどいてどいてーっ!」
「!」
落下していくその先には、まさにコートニーが隠れ見ていた外の世界からの旅人が二人、驚いたように落ちてくる少女を見上げていた。そりゃあなかなか頭の上から、しかも森の木の上から女の子が落ちてくるなんてないシチュエーションだ。
「危ない、エル!」
二人組の少女の方がもう一人の前に立ち、なにやら小さく唇を動かし足を地面に不思議な動きで擦りつける。その足下に腰から提げた宝飾の内、黄色が入った緑色の石を落とした。ちりん、と鈴のような音がなると二人の周りが微かに光ったように見えた。けれどそれが目の錯覚かどうかを判断する間もなくコートニーはその光にぶつかって地面に転がってしまった。
「うきゃんっ」
変な声をあげてしまった、と恥じる前に今度は目の前に足がだん、と突きつけられた。
「何をしているの、貴女。もう少しでエルにぶつかって怪我をさせるところだったじゃない。もしそうなったらどうしてくれるの、どう責任を取ってくれるつもり?」
赤毛の少女だった。
「何をって言われても、わたし、わたしはただ木の上で、枝が折れてしまったの。不意の事故だったんだわ、責任なんて言われても困るわ」
大急ぎで立ち上がり、二人と少し距離を置く。まるで肉食の獣に睨まれた小動物の気分だ。エルと言うのは後ろのマントの人物だろうか、そちらからはそれほど威圧感も恐怖感も感じられなかった。ただ無気力な、どうでもよさそうな表情をしているだろうなという雰囲気だけがただよっていた。
「貴女が困る困らないの問題じゃないの。エルに怪我をさせられては私が困るの。……エルに傷のひとつでもつけてご覧なさい、同じところを傷つけて、それを致命傷にしてあげるわ」
そういえば足下に落とされたはずの宝石が消えているな、などと呑気な考えが頭をよぎる。人は思いもよらない事態に遭遇するとどこか頭の隅っこで冷静になれるものだと、そういえば誰かに聞いたな、などとそう考えている時点でもうまさにそんな状況なのだとは気付かずにぼうっと一歩後ろに退く。
「……反省のひとつもないみたいね。いいわ、もう二度とこんなことにならないように御仕置きしてあげましょう」
はっと気付くと目の前の少女がまたぶつぶつと小さな声で何やら言葉を紡ぎ、大きな緑色の宝石が付いた指輪をはめた右手の中指が宙に不思議な模様をなぞっている。なんだかさっき、突然光が現れた時に似ている感覚。
「オリヴィア・ライオットの名によって、術式発動、開始」
オリヴィア。それが彼女の名前だろうか。確認できないまま、コートニーは意識を手放していた。ただひとつ、もうひとつだけ冷静に視界に入ったのは、エルのフードの下に隠れていた瞳が左右で違うという事実だった。左眼が金色に、右の眼が灰色に鈍く光って見えるその姿はなんだかまるで。
(御伽話に出てくる精霊女王みたいだわ)
深く遠く沈む意識の中、やっぱりぼんやりと冷静にそんな事を考えてしまった。

***

二人の旅人はその後森の中で誰とも出会うことなく夕方には姿を消したようだ。どうやら森の一族に協力を求めに来たのではなかったようだと大人達は判断し、そのまま何事も無く普段通りの森の生活が営まれる……はずだった。唯一、コートニーと、彼女の処遇を決めるための話し合いを開いた長老達だけが普段と違う行動をとることとなった。大人の許しを得ずに外界に繋がるものと接触したこと、そして彼女自身に起こった事態が主な議題だ。
「恐らくお前が出会ったものの、少なくとも一人は魔術師だろう。宝石や動物を引き換えに不思議な力を発揮するという。我々には理解し得ない領域の話だ」
「まったく、よりによって魔術師に会うとは……。運が無いにも限度というものがある。だから外へ出る許可を出せずにいたというのにこの娘は」
「今のところこのような事態になったことはここにいるもの以外にはまだ知られていないはず。ならば下す判断はひとつで済むのではないだろうかね」
「外界のものと接触したことは既に広まっているようだがな」
「かえってその方がよいやもしれぬよ。罰であると簡単に説明がいくのだから」
七人の長役と長老が一人、額を付き合わせてコートニーの扱いと処罰を相談する傍らで当の少女は一言を発すことも許されずにただ気まずく落ち着きなく突っ立っているしかできないでいた。
森の中に倒れていた彼女を最初に見つけたのは一番年若い長役のレフだった。彼はそのままコートニーを抱え、真っ直ぐにこの会議の広場へ連れて来て応急処置を施した。とはいえ目立つ怪我もなく五体満足で、目覚めた後も心的被害のひとつも見つからなかった。……ただ一点の、明らかに魔術の影響と思われること以外には。
「それではコートニー、お前に与える処罰を伝えよう」
どうやら話し合いは終わったようだ。長老を頂点に、長役達が半円を作るようにそれぞれ気の切り株や岩に腰掛ける。円の中心はもちろんコートニーだ。広場を囲むように立ち並ぶ木々も長老の言葉の続きを待ち、身を乗り出して静まり返っている。
「コートニー、お前はこの森から追放だ」
追放。まさか。そんな。
「そんな、そんな! 勝手に外の人たちを見に行ったのは確かに悪いことだけど、でも、わたしだって被害を受けているのに、そんなにひどい罰にしなくたって」
「もうこれは、我々の決定であり、森の守り主、星の神の許しも得た事なのだよコートニー。そんな姿になってしまったお前は既に我等にとっては異分子だ。一族の民はお前のその姿を見てどう思う? 今まで通りに接してもらえると思うか」
「それ、は……」
「ただでさえ我等はこの閉鎖された世界に暮らす民だ。外と関わりが多少なりともある大人達はともかく、子供達は人間種外の者を見たこともない。そこへそんな、獣が混ざった姿で現れてみなさい。お前を快く受け入れるものがどれほどいるだろうかね」
長老の瞳はふさふさとした眉でよく見えない。けれども真っ直ぐに自分の耳を見つめられていることはわかっている。
耳。つい先程まで皆と同じ、人間の耳をしていたのに、気がついてみればそこにあったのは紛れもなく、獣の耳。コートニーはいたたまれなくなり、両手で耳を隠すように塞いだ。
「それに星占の視たところ、お前の中の獣はこれからますます強くなるという」
「!」
「最後には完全なる獣になる恐れもあるだろう。そうなった時に我等は、例え人ならぬものとなっても元は同胞であるお前を殺さなければならなくなるやもしれない。そんなことになって、互いに耐えられると思うか?」
いやだ。これ以上人でなくなることも、殺されてしまうことも、いやだ。ふるふると、耳が震える。
「それに、お前は望んでいたじゃないかコートニー。外の世界に行きたいと。その願いが叶うのに、どうして今躊躇する」
「そ、そりゃ、外の世界に行きたいとは思っているし、言っていたけれど、自分の意思で出入りするのと追放されるのとでは意味が違うわ」
木々がざわざわ、ざわざわと落ち着きをなくす。森にすら、追い出されようとしているのだろうか。鼻先がつんとして、涙がじわりと瞳を濡らす。
「……もうお前の存在は我等の手に余るのだよコートニー。理解をして欲しい。お前は確かに誰よりも立派な森の民であり、森と星の加護も強い。けれどお前の性質だけはなんともしがたい。それは我等の役目にとっても障害であり、だからこそお前が森の外へ出るのを止めてきた。……それももう、こんな事態になってはね。恨まないでくれ、コートニー」
恨むなと。そういうのか。追放するといったその口で。ぎゅう、と拳を握る。伸びた爪が掌に食い込んで、痛い。黙ったままの周りの長役達も申し訳なさそうに黙ってうつむいているばかりで、誰も助け舟を出してくれる様子もない。
(ああ、そうか。もう、これすらも)
滲む涙を飲み込んで、コートニーは静かに片膝を着いて長老の言葉に従った。
「わかりました。コートニー・スルーランス、星と森に誓って罰を受けます」
「……星の加護のあらんことを」
静かに悲しそうに長老が少女の誓いを受け取ると、やはり静かな声で事務的に続けた。
「出立は明日の早朝、行く先は好きにするとよい。今から森の出口までレフが傍にいる。他の者との接触は禁じる。よいな?」
「はい、長老」
どうせ親のない身軽な存在。母親はコートニーを産んでそのまま病に倒れ、父親は森の外で役目を果たしている最中に事故で。それぞれが一人娘を置いてこの世から旅立ってしまったのはもう十年以上も前の話だ。別れを言う相手もいない。
「行こうか、コートニー」
「はい、レフ師」
丁度父親くらいのレフに背を押され、複雑な寂しさを胸に覚えながら広場を出ようとしたその時。
「コートニー」
長老に呼ばれた。
「なんでしょうか、長老」
「……木々が伝えてくれたことなのだがね。あの二人組は森を出て、オロゾ山の方へ向かったと言う」
「オロゾ」
「ここから北へずっと向かった方にある、高く険しい山だ。山を目指したのでないにしても北へ行ったことは間違いがないだろう」
どういう意味だろう。コートニーをこんな目に合わせた、魔術師と思わしき旅人の行方なんてどうでも――
(もしかしたら)
コートニーは、長老に軽く一礼してそのまままっすぐ家に戻る。
(もしかしたらもしかしたら)
魔術師というものが何なのかはよく知らない。だけど、こんな姿に変えたのがあの少女であるならば。
(あの人なら、わたしを元に戻せるのかもしれない)
微かな希望。長老は暗にそれを伝えてくれたのだろうか。外の世界へ出て、自分の力で、元に戻っておいでと。元に戻ったらといって森に帰ってこられるかどうかまではわからないけれど、やるしか、ない。
「オリヴィア・ライオット。それから、エル。なんとしてでも見つけて、元に戻してもらわないと」
コートニーは獣の耳をひくりと動かし、決意を強く瞳に光らせた。