08「善良な母よ。悲しむことはない」


目の前に広がる光景を、コートニーはどう表現してよいものなのか困惑してしまう。
精霊召喚を決めた日から10日。移動と準備を合わせても異例な素早さで古代魔術の復元が行われようとしていた。
ロロット・リィゼの北の塔。
外から見たよりやはり広いその広間には床一面、ありとあらゆる図柄が描かれ、一見無秩序に様々なものが置かれている。
内の1つに、山百合の咲いた鳥篭を見つけ、気になって触れようとするとリュミナスに怒られた。
「ほんの少し、微かでもずれると失敗するんだ。ましてコニーは別理論の術が身体に染み込んでいる、媒体の術属性が変化する可能性があるんだから……」
「だから、つまり、何? どういうこと?」
「何も触るなってこと」
そういうことで、今コートニーは南側の壁から続く陣の内側に留め置かれ、エルゼリオは広間の中心、オリヴィアとリュミナスはその東と西に立ち、人間種1人分ほどの大きさの陣を己を囲むように描き終わったところだった。
「準備はいいかしら」
オリヴィアが陣を描くのに使った金粉の袋を腰に結わえ直しながら元の三人を順に見渡す。
「OK。コニー、動かないでね。絶対」
「よくわかんないけど、オッケーよ。大丈夫。何言われたってされたって動かないから安心していいわよそこのウド」
「あははウドだって確かにリュミおおきいしねって……ごめん睨まないで。いいよ、僕も準備オッケー。大丈夫。大丈夫だから、ね」
ひとしきり笑った後、すぐに優しい微笑みになって。
「そんなに苦しそうな顔をしないで、ヴィア。自身を、持って」
エルゼリオの言葉に泣きそうな笑顔を返したオリヴィアを確認した後、リュミナスの口から、長い長い呪文の詠唱が始まった。

たっぷり30分、リュミナス1人の詠唱が終わり、オリヴィアの詠唱が続いて30分。そして2人の声が重なって延々3時間。
その間誰一人動かず、ただ北側の壁に吊られたカラスのみが時々その羽根を弱々しく動かすのみだった。
(こんなに大変なんだ)
魔術というものは。
空気が暗く、冷たくなってくる。
いつの間にかエルゼリオの左目に巻かれていた包帯がほどき落ちていた。
金の眼が開かれる。
ほぼ同時に、2人の言葉も途切れる。
最後の言葉は【ビゥゾォイヤ】。聞きなれない言葉。
自分で発した言葉に驚いた顔をしたのはオリヴィア。
「なんてこと…!」
リュミナスはしてやったり、という顔で笑い返す。
「どうせなら大物呼んだ方がいいと思ってさ」
何のことを言っているのだろうと首をかしげたコートニーの目の前に、いつの間に移動したのだろうリュミナスの背中が。
「え、え!?」
驚くコートニーを背に庇う様に立ったリュミナスの口から、また、驚かされる言葉を聞く。
「さあ、精霊女王のお出ましだ」

「なかなか面白いことをするな、魔術師」
コートニーにかけた魔術の話を聞き、広間の中央、エルゼリオの傍らに現れた女性がそう言って笑う。
エルゼリオの髪よりもずっと深い闇色の髪。エルゼリオのそれよりもずっと美しい金と、そして明らかに違う銀の瞳。額に虹色に反射する紫水晶のティアラを飾り、漆黒のドレスはスパンコールというよりも星を散らしたような輝きを湛えている。
「貴女ならどうしてよいのか助言をくれるだろうと、できるなら協力していただきたいと畏れながらお呼び出しさせて頂いたのですよ、母なる女王」
言葉とは違い、まだコートニーを庇う手から緊張の抜けないリュミナス。
それほどに女王が纏うオーラは高貴で強いものだった。
「ふぅむ…我を呼び出すものなどここ何百年とおらぬであったからな。良いだろう。面白い。力を貸そう。取引だ」
装飾のどれより美しい女王自身の顔が本当に面白そうに緩む。
そして右手を前に伸ばすと、その平に一輪の山百合が咲く。
(鳥篭の中に咲いてたやつだ……)
「何を望むか、人間種の魔術師よ」
視線を受け、応えたのはオリヴィア。
「コートニー・サンシャインズにかけられた術の対抗策、及び生物変換魔術の手がかりを」
後半のオリヴィアのセリフに驚いたのはリュミナスとエルゼリオ。
「ヴィア、君は……」
「諦めてないもの。さあ、精霊たちの女王よ。何を望む」
エルゼリオの問いただしげな視線を撥ね付け、右手を差し出す。
いつの間にか女王の手にあった山百合が、オリヴィアの右手に咲いていた。
「獅子の歌姫の歌声と、【媒体】の一部を」
広間の隅々まで緊張が走る。
けれど取引は絶対。
山百合の契約。
震える手を押さえ、オリヴィアはなお美しく花の咲く右手をかざす。
「古はローエルンディアの父よりの名、オリヴィア・ライオットはここに誓う」
同じように、しかし余裕の笑みで山百合を持つ右手をかざすのは女王。
「人間種の始まりと終幕を見守り数千の年月、我は名のなき宵闇の女王。誓いは違えぬ」
宵闇の女王。
(女王の中の女王じゃないか……!)
女王とオリヴィアが山百合を口に含むその動作を見つめながら、リュミナスは今更目の前に立つ精霊の強さに震える。
(本当に少し冒険しすぎたかも)
精霊女王と呼ばれる高位クラスの精霊を呼ぶつもりが、その中でも一番強い女王を呼んでしまったらしい。
失敗しなくて良かったと後ろに感じるコートニーの気配を思う。
「……具体的には」
先に山百合を全て飲み込み、口を開いたのはオリヴィア。
「人間種はせっかちでいけない。先に我の欲するものを戴こう」
「……誓いは」
「違えぬ」
きっぱりと言い切る宵闇の女王に、オリヴィアは一歩下がる。
「そこの【媒体】」
女王は今度はエルゼリオに向く。
「名を」
「エルゼリオ」
ファストネームのみを言う彼に、女王は眉を顰める。
「主には一族の名はないのか。魔術における契約を知らぬでもあるまい、【媒体】となりし人間種の魔術師」
「僕はファストネームだけで誓いを立てられるのです、闇色に輝きし女王陛下」
「証は」
女王の視線にもたじろがず、けれど少し戸惑ってオリヴィアを盗み見た後、エルゼリオは顔を上げ、広く響く声で応えた。
「エルゼリオの名において。宵闇の女王の加護の下、遠きより我が手に【明星のライトォット】を」
エルゼリオが左手を前に伸ばすと、その背後から「うわぁッ」とリュミナスの声が。
そちらに視線を移した女王は、リュミナスのマントの下からエルゼリオの手元へ一振りの短剣が飛んでくるのを見た。
エルゼリオの手元へ視線を移そうとした瞬間、短剣はそれよりも早く女王の喉元へ。
「何で君が持ってるのさ、リュミ」
動かず、女王を見据えたまま訊ねる。
「いやちょっとナウザまで足を運んだ時に裏市で見つけてあんまりに珍しくて見たことない物だったしオーラも相当出てるし丁度手持ちに余裕もあったしで買ったんだけどまさかそんなすっごいものだとは思いもよらなくて」
マントの下から覗いた大量の武器類に相変わらずだねと1つ溜息を吐くが、女王を見つめる瞳に動きはない。
「……そうか、我の加護を持つか」
それに、と呟き女王は唇の端で笑うと、短剣の切っ先をずらすと、その刃を愛しそうに指で撫で、目を細める。
「宵明のが宵待の娘御の旦那に贈った【明星のライトォット】、か……我だけでなくあやつらの加護をも使う主の血を知りたいものだ」
「今必要なのは僕の血でしょうか、女王の中の女王陛下」
く、と喉の奥で笑うと、女王はエルゼリオの長い髪へと指を動かす。
「否、必要なのはこの闇色の糸よ。主の目が完璧であれば目も戴きたいところなのだが」
「不完全でよかったと、今ほど思ったことはありませんよ、金と銀の目を持つ女王」
「それは残念だ。……エルゼリオ」
「ではここに、望みの1つを。宵闇の女王」
2人の瞳が合わさった時。
どちらの力だろうか。短剣【明星のライトォット】が泳ぎ、エルゼリオの髪を切り落とす。
「……エル」
オリヴィアの声に、振り向いて、笑顔。
「これだけで済んでよかったよ。ねえ、ヴィア」
けれどオリヴィアはまるで表情の作り方を忘れてしまったような顔でエルゼリオを見つめていた。
「どうして、……言ってくれなかった、の……エル」
「女王の加護のことかい」
「それ以外に何があるというの」
「……特に役に立つことでもなし。自慢することでもなし。むしろ隠さないといけないことだった。そう言い聞かせられていたからね。一族が大切ならば、誰にも言わないのが上策、と」
「どうして……!」
「考えてもごらんよ。女王の加護のことを他人に言うことで、僕らはどれほどの巨万の富と栄誉と何万と後の時代にも語り継がれる名前とそして、孤独な死とあらゆる魔術のために命を削る日々が待っているかを」
苦く笑うと、切られた長い髪を女王に差し出す。
「……何故、あなたが悲しそうな顔をするのです。慈しみ深いすべての母よ」
「母が子の代わりに泣くことは珍しいことでもあるまい」
「……ありがとう、だけど、善良な母よ。悲しむことはない。さあ、早く取引を」
それがこの世界の律なのだと音にせず呟き、女王に促す。
分かったというように女王は一つ目を閉じ、次に開いた目はやはり強く、悲しみなどどこかへ消えた光を湛えていた。そしてその目でオリヴィアを見つめると、目に湛えた光と同じように美しく強い声を発する。
「さあ、歌うのだ。獅子の髪を持つ娘よ。錬命の師を謳う歌を」
女王の声にはっと息を飲み、すぐに歌いだしたのはオリヴィア。
やはり聞きなれない言葉だらけのこその歌はひどく耳にまとわりつき、頭の中に鋭い針を打ち込まれる気分にさせる。
耳の感度が通常でも人より良くなったコートニーには辛い音だった。
(耳が熱い……!?)
耳を塞いでも聞こえるその音。
見ると女王はエルゼリオの髪で陣を描いて、そしてオリヴィアの声に合わせるようになにやら呟く。
「……まさか」
リュミナスの声が意外に大きく聞こえた。
見上げると完全にコートニーを抱きしめるように覆いかぶさっていた。
また、耳の感度が良くなる。
「な、何、何が、まさか、なの?」
耳を塞ごうにも犬の耳は立ってしまって塞ぎようがない。
「……古代魔術の書き付けで一度だけ見たことがある。女王の唱える言葉に近い言葉を」
「どんな魔術なの?」
答えには、丸々一分。
「【魂召喚】」
ほぼ同時に、また1つ人影が増える。
「実体世界に呼ばれるなんてもうないと思ってたのに。誰だよオレを呼んだのは」
炎のように赤い髪。混ざる白い羽。
髪と同じ赤の瞳。
褐色の肌にはブルーのタトゥ。その形は鳥の翼を模している。
この場の誰より幼い少年の姿に女王は微笑みかける。
「また趣味のいい姿で現れたな、錬命の師」
【錬命の師】
そう呼ばれるに値する人物は長い歴史にたった一人。
「メルメ・アリオット」

伝説に近い歴史書の中、何千年と間をおいて再びその名が表舞台に立つことになる。