少し遠出の高岡美術館編

 少し旅に出よう。そんなことを神通が言うものだから、今度はどこに連れて行って貰えるものかと思えば。
「あっ、すごい、おっきなどこでもドアですよ!」
 鮮やかとも言い難い、さりとて可愛らしいわけでもない、よく見るアニメそのままのピンク色をしたドアが、来客を吸い込みたくてうずうずしている。
「果たして高岡までの道のりを旅やって言っていいがやろか」
 はしゃぐ岩瀬と裏腹に、松川は呆れたようにため息を吐く。
「さ、駅に着いた時に聞いたわ。何遍も同じこと言うとんなま」
 そして言い出しっぺがこれである。
「大体なんで急にドラえもんながけ」
 ドラえもん。正確には高岡市美術館内に二〇一五年にオープンした、高岡市藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー。ドラえもんやパーマン、キテレツ大百科等、かつての、そして今の子供たちに寄り添う楽しいキャラクターを生み出した藤子・F・不二雄の郷里である高岡に、その痕跡をそっと持ってきたような小さなギャラリーだ。
「一昨日、岩瀬がTJ見とって」
 TJ。富山のいわゆる地元のタウン誌だ。そういえばいつだったか、本屋でこのピンク色のドアが表紙になった号を見たような気がする。
「行ってみたいって言うとったから」
 だから、連れてきたのだと。
「……そこに僕がおる必要はあんがけ」
 デートじゃないのか。
「そ、そんなんふたりきりとか恥ずかしくておられんわ!」
 相変わらず岩瀬との関係は一向に進んでいない様子の神通の反応に、
(まあいつも僕も一緒やから進みようもなかろうけどさ)
 松川は小さくはあ、とため息を吐いた。かわいそうな弟分。八十年近くの片想いは、あとほんの一歩、ほんのひと押しで成就するというのに――いや、すでにしているも同然なのに。そのあとひとつの勇気を出さない。
(無理もないやろけどもさ、それにしたってやな)
 見れば岩瀬はそわそわとドアをくぐってすぐのところにいて、ふたりが行くのを待っているようだった。
「ほら、行くぜ」
 とん、と神通の背中を押す。物理的な距離だけでなく、精神的な距離もこのひと押しで縮めばいいのに。いい加減やきもきした気持ちを抱える自分の身にもなって欲しいと思いながら松川はもう一度ため息を吐いた。



 入ってすぐに壁にぐるりと古い画風の漫画が並ぶ。手前にもパーテーションのように壁が作られ、そこにもある。
「手塚治虫っぽいな」
 ぽつり呟く松川に、神通は表情を変えずにさらりと答える。
「そんだけ影響の大きいお人なんやろ。なんたって漫画の神様なんぜ。多分あの頃のスタンダードになっとったがやと思うわ」
 藤子のギャラリーのはずが、改めて感じるその存在の大きさ。たかだか数十年の命で神様なんて呼ばれるのだから、人間というのはなんと単純で、しかしその何倍もを生きる自分たちにも簡単には持ちえない才能があるのだから面白いものだ。
「この辺のが描いとった頃ちゃまだ氷見におったがやろ、誰かセンセと話したことあるやつとかおらんがけ」
「氷見……だと、どなたがいらっしゃるんでしょうか」
 手製の小さな漫画本の複製ページを読みながら、松川と岩瀬のミーハーな会話に対して神通はうーん、と喉の奥で唸る。
「あの辺ちゃあんまし縁もないやつらばっかやしなあ……庄川なら知っとるがかもしらんけども……」
 わざわざ間に庄川を介してまで聞くような事でもないだろう。そう言うと、ふうん、と松川も岩瀬も興味が失せたように再び壁面の小さな漫画達に視線を戻す。
 現在とは少し違う、けれど確かに漫画らしい漫画の文法で描かれたその作品たちは懐かしく、そして同時に描かれたのであろう当時の事を思い出させられて、ほんの少しだけ神通の胸が痛む。
「……神通さん?」
 その背に小さく岩瀬の声がかけられる。
「ん」
 それに対して何でもないという顔で振り返るが、この少女の姿をした存在には神通の気持ちなんてお見通しのようだった。そっと右手を掴まれ、人間のような暖かさがじわりと侵食してくる。
「……なんけ」
 ぶっきらぼうに返すが、岩瀬はわらって「ほら」と少し先を指す。
「見てください、ねえ、パーマンのマークのソファですよ!」
 一応美術館の中なので小声ではあるが、興奮したような声をあげる少女に、少しだけ神通の表情が崩れる。
「ほんなことでちゃ喜べんがけ。単純やなあ岩瀬は」
 呆れたような、けれど愛おしさを隠しもしない声で言えば、岩瀬はえへへ、と頬を染めて笑う。褒めてもいないのにおかしな奴、とその頭のてっぺんを指先で小突いたところで松川の姿が見えないことに気がついた。
「なんけ、あのっさん先にどこまで行ったがよ」
 手を繋いだそのままに、そう広くもないエリアをのんびり歩く。次の部屋に繋がっているのだろうか、角まで来ると声が聞こえてきた。聞き覚えのある愛らしい声。
『ドラえもん、なんとかしてよォ』
 甘ったれた声で漫画のタイトルでもあるキャラクターの名前を呼ぶその声は、歳相応の等身大と言うには余りに情けない小学生の少年のそれ。見れば部屋の半分は小さなシアターのようになっていて、壁に掛けられた少し大きめのディスプレイ画面にはまさに声の主である少年と、青くて丸い『ネコ型ロボット』が不思議な道具でテレビの中の世界に落っこちてゆくシーンが描かれていた。
 そしてその前、画面に向かうように二列前後に並べられた小さなベンチに、幼い子供と一緒になって腰かけて真面目な顔でアニメを見ている松川の姿がある。
(子供けよ)
 今度こそ呆れた顔で松川の横顔を見ていたが、ふと自分の隣に視線をやれば同じようにキラキラした顔で岩瀬が画面を見つめていたものだから。
「……見とれば?」
 す、と繋いだ手を引いてベンチの方へ促す。岩瀬は一瞬戸惑ったようなそぶりを見せたが、後ろ手前のベンチに浅く腰をおろし、松川や子供達と揃って食い入るようにドラえもん、そしてパーマンの活躍を見ることにしたようだ。
(面白いもんかねえ)
 実のところオタクであるのは神通のはずだが、しかし『ジャンルが違う』と少し敬遠気味に見ているのは確かだ。今回だって岩瀬が興味を示さなければ来なかったし、前回高岡市美術館に来たのだってよく考えればご当地美少女キャラのデザインを手掛けたアニメーターの原画展が数年前にあったからで。それを思い出して少しばつが悪くなった神通はシアターブースを通り過ぎ、漫画原稿が並べられた、これまた狭いブースの中をふらり歩く。
(原画……複製やろか)
 漫画の内容どうのではなく、作業の跡が見られるこういう展示は興味深いと思う。今は最終的に紙の本に落としこまれるとはいえ、元の原稿はコンピュータ上で全て済ませると言う作家も多いと聞く。そうなるとこんな風に原画を展示する行為は意味がなくなり、行われなくなるのだろうか。修正の跡や余白に走り書かれたアシスタントへの指示。そういったものがなくなれば、それは読者の手元に届く完成品となんら変わりもないだろうデータ上の元原稿にどれほどの価値を見出せばいいのだろう。
(こういうがを古臭い考えっちゅうんやろな)
 まじまじと細かく書き込まれた背景を見つめながらそんな風に考えていると。
「おっ、土管やねか」
 短編アニメが終わったのだろう、松川と岩瀬がいつの間にか背後にいて、部屋の中央に置かれた土管を模したソファに関心を向けている。わかりやすいものに食いつくやつやなと神通が振り返ると、しかしそこに嬉しげに座っていたのは岩瀬だった。
「展示はもうこれでおしまいみたいですね。ちょっと寂しいですけど、お土産買って帰りますか?」
 これだけ。予想はしていたが、それにしたって確かに寂しい。並べられたものはいっそ感心するほど興味深い資料であるだけに、もっと、あと一声なかったのだろうかと勿体無い気持ちになる。
「もっと頑張ってでっかいといいがにすりゃいいがに」
 もっとたくさん作品だってなんだって、並べて、賑やかにしたらいいのに。もっとたくさん、見たいのに。物足りないな、ぼやきながら物販コーナーへ行く松川、でも楽しかったですよとそれを追う岩瀬。そして神通は最後に振り返り、そこに何かを探ろうとするけれど。
(……何が、あるっちゅうんやろ)
 ここには別に、誰の魂も残されてなどいない。もし残されているならば、それはこんな狭い箱のなかではなく。
(彼の作品を受け取った人間の、ひとりひとりの心の中やろ)
 人間の魂が受け継がれると言うのは、そういうことなのだ。長きを見つめてきた神通は、ちゃんとそれを知っている。