川は流れ続ける。何があろうと、ただ、静かに。
「私、そろそろお払い箱になるかもしれません」
そんなことを富岩がぽつりと呟いたのは、戦争も終わり、高度成長期を経、敗戦とは何だったのかと思うほどに平和で豊かな日常の中にいた頃。
「もう随分と前から私は私の役割を果たし切れていませんでした。気がつけば水上運搬よりも車での輸送の方がはるかに便利になっていましたし……私の周りに多く並んでいたはずの工場も、ほとんど廃れてしまいました」
もう人間の役に立つことすらもできないとなれば。
「元々あるはずのない存在です。埋め立てられるのもあっという間でしょう。なので先にお別れを言うべきかと」
淡々とまるで他人事のようにそんなことを言う富岩の額を、神通の掌がピシャリたはたく。
「!?」
「何を言うとんがいね。勝手なこと言うとんなま。このだらぶちが」
怒っている。静かに怒っている。流石に富岩もだらぶち、と言うのが馬鹿、と罵られていることと同じと理解している。けれどなぜ。なぜ怒られているのだ。富岩はわけがわからないという風に神通を見つめる。
「神通は富岩が諦めとんががはがやしいんよ」
横からくつくつと笑いながら松川が神通のフォローをする。
「ここんとこ神通が元気になっとんがも、三井鉱業の件がやわなっとるだけでなし、富岩が神通を支えてくれとっしや。ほんな大事な富岩がみすみすおらんくなるかもしれんがを、しかも本人が受け入れとっとちゃ、そんなんやーあな気分にもなろうがいね」
松川の言葉に改めて神通を見つめ直すと、当の神通はふいと視線を逸らした。難しい顔をしているが、富岩にはもうわかる。照れているのだ。
「いえ、支えるなど大それたことは……ただ、隣人として当然のことしかしていません」
やんわりと否定するが、松川はニヤニヤと二人を見ているまま。
「その、『当然のこと』が、神通の助けにもなったし、嬉しかったんやろ。ほじゃないと、あんな壊れとったんがこんな元気にちゃなっとらんわいね」
壊れていた。悲しい戦争の一端。富岩は空襲のあの日の神通の表情を思い出す。あのまま枯れて消えてなくなってしまうのではないかと、富岩だけでなくもちろん松川も不安でたまらなかった。
けれど自然というものはしぶといもので、水は絶え間なく山から流れ続けるし、そうなれば川は海まで運び続けるしかない。富岩はそれを手伝ったわけでも助けたわけでもない。ただ隣で見守り続けただけだった。毎日顔を合わせれば挨拶をしただけだった。ただ、それだけだった。
少しずつ、少しずつ。最初の頃は声をかけても気付いているのかいないのか、反応のなかった神通が、ちらと視線を向けるようになり、「おう」と声を返してくるようになり、いつしか天気の話をするようになった。季節の花の話をするようになった。町の復興を、発展を、変遷を語るようになった。
今こうして松川も含めて三人でお茶を飲みながらお菓子をつつき、いつか上野のパンダを一緒に見に行きたいねなんて他愛もない話をするまでになった。
けれどもそれは、神通が神通自身の気持ちでもって立ち直ったからだと富岩は思っていた。自分にはない、自然の強さだと思っていた。
「神通だけじゃない、ぼくも富岩がおらんがなるんは、ちょっと寂しいちゃよ。……なんとか、できんもんかいねえ」
きっと人のみんなも同じように思っとっと思うよお、と松川はぐいと湯呑をあおる。神通はまだ富岩を見てくれない。ふたりのそんな照れ隠しの中の『自分にいてほしい』という思いが、富岩の胸をぎゅうと苦しめた。