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富岩と岩瀬・2

 富岩運河が彼らの仲間――と果たして言ってよいのか、富山を流れる河川の末席に身を置いてから数年。日本は中国との戦争、そこから飛び火するように大東亜戦争へと移行、再びの軍需景気に沸くかと思われたが、景気も戦況も思ったよりも良くはならないまま、とうとうその日が訪れた。
「最近元気ないがじゃないけ。どしたん、うぃが?」
「ん……」
 松川がそう心配そうに声をかけるも、神通はただそれだけの返事をするので精一杯だった。以前から症状はあった。それは松川も知っている。否、松川が抱えていた苦しみそのものだ。今は松川が神通川の支流になることでいくらか症状は軽くなったが、苦しみそのものは神通川の本流の立場ごと引き継がせてしまったのだ。言葉にこそしないが、松川はずっと罪悪感に苛まれ続けている。
(そやからって、どうにもしようもないがやけど……)
 おそらく川の源流、あるいは上流に何かがあるのだろう。そんなことは先の大戦よりずっと以前からわかっていたのに。けれど所詮はただの水の流れでしかない松川たちに解決能力などない。同じように苦しんでいる人間たちと、その人間たちを見、憂いた頭の良い、力のある人間たちがどうにかするしかない。
 人間たちが苦しむ姿も、神通自身が苦しむ姿も松川には歯痒くて仕方がない。そうしてふと手にした一枚のビラに視線を落とす。爆弾をまるでゴミのようにばらまく爆撃機の写真。そこに書かれたいくつかの都市の名前――その中には富山の文字も書かれていた。
(なんで……なんでこんなことにちゃなっとんがけ)
 眉根を寄せてぐ、と拳を握る。無力だ。自分はあまりに無力だ、と松川は思う。今年に入って幾度も落とされた、ただ生命を悪戯に壊すだけの熱量。それを止める力も回避する術も救うこともできない。人間より長く生きているとはいえ、それだけの単なる川なのだ。人の手で整えられたとはいえ、自然。地形。それだけの存在なのだ。神通の苦しみと同じで何をすることもできない。
(なんのせできることなら、なるべく悲しむ人間の数は少ない方がいいがやけど)
 空から襲ってくる熱を和らげるために、ぬるい水を差し出すこと、何の解決にもならないそんなことくらいしか彼らにはできない。ぐしゃり、行き場のない感情でもって松川は悲劇の予感を握りつぶした。

 松川の願いむなしく、富山を襲った空襲は、それは凄惨なものとなった。ただでさえ調子の悪かった神通が、朝日によって明るく隠されることのなくなった無残な遺体の山を茫然と眺めているのを(ああ)と松川は諦めたような表情で見つめた。
(神通はもう、駄目かもわからんなあ)
 かく言う松川も満身創痍だった。自身にも降り注ぐ悪意を持った熱にやられながら、必死に生にしがみつく人間たちを川として抱え続けたのだ。
(いくつもの命が、ぼくの中で流れてった)
 庄川は無事だろうか。小矢部は。黒部は。常願寺は。他のみんなも。遠くに住む彼らのことも思う。金沢の名はビラには書かれていなかったし、あそこには目立つ軍事施設もなかったはずだから無事だとは思うが。
(浅野は、……きっと心配しとんがじゃないけ)
 無事を知らせねばと思う。反面。
(無事? か、無事なんけ)
 生きていること、存在していることを無事というなら間違いなく自分たちは無事である。けれども。
(こんな、心が壊れた神通を無事やって、言えるわきゃない!)
 川面が揺れる。小さな支流である松川には起こるはずのないうねり。ぐわんぐわんと渦を巻き、川岸から水が溢れそうになった。その時。
「ご無事でしたか」
 心地よい、冷ややかな声だった。我に返った松川が振り向くと、ボロボロになりながらも幼さも美しさも損なわない、出会った時と寸分変わらぬままの富岩運河の姿があった。
「富岩……」
 驚いた。彼女もまたこの空襲で傷を負い、痛みを負っただろうと思っていた。いや負っているはずだ。つい先日にも彼女に縁のある岩瀬地区は空襲を受けたばかりだというのに。
「なん……なんでこんなとこ……あんたこそ、無事ながけ」
 戸惑うように聞き返す松川の言葉に、少女は「はい」と簡潔に答えた。
「無傷、とは私も市民の皆様もいきませんでしたが……こちらの方が被害が甚大なようでしたので、お二人がどうしているか……その、気になったものですから」
 気になった? 松川は信じられないとでも言うように目の前の少女の顔を見る。まるで人形のように表情も熱も感情もなく、淡々と運搬仕事をこなしていただけのロボットのようなこの、人口の河川が。
「心配……してくれたがけ」
「だからそう言っています。……何ですか。私にも誰かを心配する心くらいはあります。まして、……あなた方はお認めにならないかもしれませんが、私は同族であると思っています。近しい方の安否を気遣うことは何もおかしくはないはずです」
 言いながら富岩自身が自分の言葉に戸惑っているようだった。松川がないと思っていた表情も、よく見れば困惑と怒りがないまぜになったようなものになっている。しかも何が気まずいのか視線は松川から少し逸らしたままで。熱がないわけがない。彼女の顔や腕に残る火傷の跡はまるで人間と変わりない。何より誰かの心配をするなんて。
「……ごめん」
 松川はこんな時なのに、口角がほんの少し上がるのを止められなかった。
「ごめん。ぼくら、あんたのこと誤解しとったね……ごめん。心配して、来てくれて、ありがとう」
 深く頭を下げた松川が顔をあげた時、ようやく富岩と視線が合った。やはりまだ、戸惑ったような表情だったけれど。
「いえ、私も……この思考には自分でも違和感を持っていますから」
 そして表情をす、といつもの人形のようなそれに戻す。
「それより、神通さんは……」
 神通の名に反応した松川の視線を追い、富岩は少し後悔した。まるで魂のない、糸の切れた人形のようだ――自分よりも。
「……神通さんがここのところ調子がよろしくないのは知っていました」
 堤防を挟んですぐ隣を流れているのだ、顔を見ない日はない。ただ声を掛け合うことがないだけで。
「そんなところに、こんな……人間とはなんと愚かで、身勝手なのでしょうか。私には、理解できません」
 その言葉ははたして何を思って出たものだろう、と松川は横目で富岩を見る。
 戦争特需を狙ったはずが上手くいかない日本の経済。工業資材を運ぶことを主な仕事としている富岩に、その影響が出ないはずはなかった。働けど働けど誰も幸せにならない現状。人の為に人の手によって作られた富岩はまさにアイザック・アシモフの作品によって示されたロボット工学の三原則、それに従っているようなものなのに、現実でも矛盾によって原則は破壊される。
「はがやしいな……」
 何もかも、誰もかもうまくいかない。自然も人間も、同じなのだ。

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