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呉西夫婦と岩瀬さん

 もうどれほど昔だろう、人の記憶や記録を辿るよりもずっともっと遥かに遠い昔。本人達ももう覚えていないよと静かに笑うそれは、何となく神通にも松川にも、もちろん一番年少の岩瀬にも触れにくい話だった。
「ほんでもねえ岩瀬ちゃん。そうは言うても忘れきるこちゃできるわけがないわいね」
 ふわりふわり、ツンとした香りが小矢部の紅い唇から言葉と共に漏れる。
(姐さん、酔ってる……)
 不安になるも男性陣を女子部屋に呼び出すこともはばかられる。温泉から上がって随分たって、二人とももうあとは寝るだけ、化粧も落として浴衣も大分肌蹴てきているのだ。そんな姿、見せられるわけがない。
「あのっさんちゃ、まーあ薄情な人やからいね、あっちゃこっちゃふらっふらふらっふらして……ほんでもずうーっと、うちとこには必ず帰ってきてくれとったがいぜ。ながに、とうとう手ぇ離さんなんくなって……」
 じわりと涙がにじむ瞳を誤魔化すように缶に口を付ける。カップ酒に始まり少量サイズの日本酒が一瓶、チューハイはこれで3本目だ。そりゃあ酔って普段言わないようなことも口がつるつる滑るだろう。
「……小矢部の姐さんは、庄川さんのこと、本当に好きなんですね」
 つまみ代わりの昆布をひとつ、口にくわえやすいサイズにハサミでちょんと切って唇で食む。そうしながら素直にそう感想を述べると、またじわりと小矢部の目尻に涙が浮かぶ。
「当たり前やがいね……嫌やったらそんなんそもそも最初っから受け入れるわけがないねか」
 ほたほたと水滴が零れる。岩瀬は慌ててティッシュを渡すが。
「ちご」
「え」
「こんなん足らん。バスタオル」
「あ、は、はい!」
 急いで干してあったバスタオルを、もうどちらが使ったものでもいいかとひっつかんで渡すと、そのまま小矢部はわあ、と顔にバスタオルを押しつけて叫ぶように泣きだした。
「なんでぇ、なんで、別れんなんならんかったがぁ! 庄川のだらぁ!」
 わあわあとまるで子供のように泣きわめく小矢部を、岩瀬はぽかんと見ていたが、背中をさすってやる内にいつしか静かになり、そのまま座卓に突っ伏して寝息を立て始めた。
(す、すごいものを見てしまった……)
 しかしこのままでは風邪をひいてしまう。かといって今の岩瀬には小矢部を布団へ運ぶほどの力もない。掛け布団だけでも引っ張ってくるかと立ち上がりかけた時、コンコンとノックの音が聞こえてきた。
『岩瀬、起きとっけ』
 その声に慌てて飛びつくようにドアを開ける。
「庄川さん!」
「おう、こんな夜遅くにきのどくなね」
 からりと笑って長身の男は遠慮も見せずにずいと部屋に入ってくる。
「来る途中になんちゅでかいと酒買うとるわ思ったら案の定やねかね」
 庄川が呆れるのも無理はない。でかいと――沢山、まだ空いていない酒が卓の上に積んであるのだ。
「珍しく飲むんや言うてはりきっとってこれちゃ本当にいつまでたっても手ぇのかかる……」
 そうは言いながらも笑って小矢部を抱き上げた庄川は、そのまま布団へ運んでやる。そのあまりの自然な行動にあっけにとられていた岩瀬だが、慌てて庄川の背に問うた。
「ど、どうして」
 このタイミングで。いや、そもそも小矢部がこんなに荒れることすらも。どう尋ねるべきか、言葉を繋げる前に庄川は振り返って、笑う。
「小矢部のこちゃ、なぁんもかもわかんがいちゃ」
 なんとなくやけどな、と人差し指をひとつ立てる。それは内緒にしておけということだろうか。誰に、どうして。
「……庄川さんも、小矢部の姐さんのこと、好きなんですよね……?」
 信じていたが、確信のなかった問い。それでもなんでもわかると言うならば、きっと。
「んー……まあ、なあ。そりゃあ夫婦になったくらいやし。嫌いになったことも興味がなぁなったことも、ないなあ」
「じゃあ、どうして」
 どうして別れたのだと。そう、何故か泣きそうな岩瀬の声に「うーん」と生返事をしながら眠る小矢部の髪を梳く庄川の瞳は優しくて。
「ま、いろんな理由があんがよ。それは俺らがどうのっちゅうがんなくて……人間の都合とか、どうしょもない色んながが絡まっとって……ちょっこしややこしいがんぜ」
 人間の都合。そう言われてしまうと、特に岩瀬は弱い。生まれからして人間の都合そのものなのだ。それを庄川はわかってて言う。意地の悪い大人だ。
「ま、嫌いあって別れたわけでもないがやし、今もこれでもしゃんと大事にしとんがよ。仲悪いとこなんちゃ見たことなかろ」
 そうしてぽん、と岩瀬の頭に手を置いて。
「ほやし岩瀬は俺らのことなんちゃ気にせんと、神通のことだけ考えとられよ」
 その名前に、一瞬で少女の顔は赤くなる。
「しょ、庄川さんっ!」
 その反応に満足したのか、カラカラと笑って庄川は「ほんなら」と腰を上げる。
「こっちにおったこと、神通らにばれたら殺されっしね、そろそろ行くちゃよ。岩瀬も、小矢部に俺が来たこと言われんなよ」
 小矢部がこんな風に荒れたことも男連中には内緒にな、と念押しして庄川はそっと部屋を出た。
 最初から最後までぽかんと見ていただけの岩瀬だったが、ますます二人の関係がわからなくなって首を傾げるばかりだった。

◆◆◆

 翌朝、自然と二人並んで仲良さげに何を土産に買おうか、帰りはどこへ寄って行こうかと話しながら朝食を食べる庄川と小矢部を見てまた岩瀬は首を傾げる。
「どしたがけ」
「いえ……庄川さんと小矢部の姐さんって……不思議な関係だな、と」
 岩瀬の視線の先を辿り、神通もまた首をかしげる。
「別にいつものことやにか」
「いえ、そう、そうなんですけど、けど……」
 昨夜のことは庄川との約束で言えない。もどかしさをうー、とうめくことで伝えようにも神通には伝わらない。それどころか何故か神通に撫でられた。
「な、なんですか神通さん!」
「なぁん、岩瀬がなんか悩んどるみたいやったし……」
 そんな神通と岩瀬を見る松川はあほくさい、とため息を吐く。
(あんたらも十分不思議な関係ながやけど)
 面倒臭い。お前らもう付き合えよ。言わない代わりに黒部に構って余所見をしている常願寺の皿から昆布巻きをひとつ、盗み食いしてやった。

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